開化開導 ―浄土真宗の教育   <第1講>
                             真城 義麿 氏
(2007年4月13日)
 本講座は、名古屋教区教化センター研究生の教化研修の一環として、開講しました。
 真城義麿氏は、大谷大学修士課程終了後、大谷中・高等学校で十五年間教壇に立たれた後、自坊の法務に従事。過疎と高齢化が進む田舎での生活の中で、まさに老・病・死が日常生活の中にあふれていることを強く実感されました。
 そして、再び大谷中・高等学校の校長として着任される中で、「学校」という場が、老・病・死を排除し、健常者だけで運営される特異な場であることを再認識され、さらには特異なことに気づけない教育現場の現状の中に、現代社会が抱える諸問題の縮図が隠されていることを痛感されました。
 本講座では、そうした氏の体験から見出されてきた現代社会の闇と仏教理念を基とした教育のあり方を追求されている姿勢に学ぶべく、指導いただくことになりました。

宗教とは基本的に教育である

 「浄土真宗の教育」というテーマを頂戴したわけですが、例えば「真宗保育について」話せと言われると、行った先で必ず「真宗保育などというものが世の中にあるわけではありません」と申し上げるわけです。「真宗はこうでなければならない」というようなことを言った瞬間に、それは真宗ではなくなるのです。そういう点で「浄土真宗の教育」ということも「まあどうなるのかな」と思ったりもしますが、そもそも「宗教」というものは基本的に教育なのです。宗教は何のためにあるかといえば、うまく生きていけなかったり、不安だったり、身動きが取れなくなったりした時に、生きることができるようにする。或いは、「私が私に生まれたことにはどんな意味があるのだろうか」「生きるとは一体どういうことなのか」。そういうことを考えるのが「宗教」であり、それは同時に「教育」ということになるのだと思います。
 今回、テーマとして「開化開導」という言葉をいただきましたが、僕はこういう言葉を今まであまり意識してこなかったのですが、今回最初に思いましたのは、明治時代の文部大臣にこの言葉を教えてあげたかったということです。
 明治のはじめ、英語の「education(エデュケーション)」という言葉をどのように翻訳すればいいのかという議論があがりました。その時に、「教化」、「啓蒙」、そして「教育」と、三つの候補があがったのです。その当時の文部大臣が森有礼という人ですが、彼が主張したのが「教育」という翻訳なのです。これが採用されて「教育」ということになったのです。ここに最初からのかけ違いがあるわけです。つまり、「教え」「育てる」ということですが、本来「education(エデュケーション)」とは、まさに「開導」と訳すのが一番ふさわしいと思ったのです。
 「e」というのは「外に向かって」という意味。「duc」というのは「導く」という意味です。例えば、「conductor(引率者)」、とか、「introduce(紹介する)」、「produce(制作する)」とかの「duc」も「導く」という意味です。つまり、子どもたちがすでに持っているものを導き出すということだと思うのです。私たちはいろんなものを持って生れてきているわけです。それを引き出していくのが教育の仕事なのです。しかし、いつの間にか教育は「入れてあげる」というイメージになってしまったように思います。

■知識を詰め込むことより 引き出すことが大事

 例えば空っぽのビンにいろんな知識を入れていく。小学校卒業までにはここまで、中学校ではここまでというように入れる。そして、いっぱいになったらよくできましたという具合です。これでは個性のかけらもありません。時にビンが割れたり、転がったらそれで終わってしまう話なのです。今の教育は入れることばかりに懸命になっていますが、何のために入れるかというと、本来は出すために入れるんだと思うんです。
 教育というのは、例えば「30」入れれば、すでに今まで蓄えていたものと組み合わせて「45」として引き出す。こういうものなんだと思うんです。
 世界史という授業なら、以前に習ったことや、日本史や国語なんかと重なったり繋がったりして、子どもたちのいろんなことになっていくことなんだと思うんです。
 「学ぶ」ということには三段階ありまして、
 @「正しい知識を正しく身に付ける」
 A「今まで学んできたことと、新たな知識を重ねて繋げる」
 B「そのことが私の生き方を変え、生きる姿勢が変わる。顔の向きが変わる」
です。仏教での聞法も一緒です。
 しかし、日本の教育というのは第一段階だけになっている。これは点数、評定、成績の付け方がまさにそうであり、正しい知識をどれだけたくさん身につけたかというのが「学力」と呼ばれるものになってしまっている。

■開化開導を待ち望んでる子どもたち

 別の言い方をすれば、人間はみんないろんな「火種」をいっぱい持っている。これがちゃんと炎となり、燃え始めれば、放っておいても勉強するわけです。野球に燃えている子に「もっと野球をやれ」という必要はないわけです。野球に燃えている子は、放っておいても野球に関して研究もするし練習もする。本人は大抵の場合、自分の火種に気がついてないんです。だからこそ周りの大人も一緒になって見つけて、それを燃えるようにしてあげることが大事だと思うんです。もちろん、火種が消えそうになっていたら、どんなことをしてもその火種を守ってあげなければなりません。
 ところが、今の子どもたちのほとんどが何に燃えていいのかがよくわからない。それで、変な時間つぶしをしているわけです。それも、きょろきょろ他人を見て、自分も時間つぶしをやらなきゃいけないと思って、今、流行っている情報を必死に仕入れて、本当はそれほど面白くなくても、そういう気持ちをどこかに隠して自分を装っている。そういう意味で、やっぱり「開化」とか「開導」ということを本当に心の底では待ち望んでいる。「導」という字は、下の作り「寸」ですが、これは「手」を表し、手を引いて道案内をするという意味です。だから、導くといった場合、子どもたちのところまで行って手を握ってつれてくることなんだと思います。
 「開」もそうです。門がまえの中の形は両手の指を表します。両方の手で「門」を開けようとしている姿です。入れれば出る。これが健康的な状態なんだと思うんです。食べたり飲んだりということについても、入れるばかりでなく、ちゃんと排泄しないといけない。それもできるだけいろんな形(汗、おしっこ等)で出すのがよい。聞法も聞くばっかりじゃ駄目なんです。喋ってばっかりでもだめです。
 子どもだけでなく大人もそうですが、自分の中にいろんな情報が入ってきます。例えば「嫌なことを言われた」というのが入ってきます。ストレスで出入り口が緊張して「ギュッ」と縛ってしまうと「嫌なことを言われた」が出て行けないわけです。すると出口をなくしたその嫌なことが渦巻いて濃縮し、やがて毒になっていく。するとなんかの拍子で、口が開いたとたんに、非常に攻撃的で凶暴なものとして出てくるわけです。
 子どもたちがいろいろ溜めているものを時々少しだけでもいいから口を開けて出してあげると、本人も楽になるし、溜めて暴力的なことにもならずに済むことがある。
 教育というのは、教員が生徒に向かって行うことである。或いは、お坊さんは、ご門徒さんに向かって何かするのが仕事であると思われがちですが、一方通行ではなく両方の交わりが必要なんだと思います。 
(※この講演録は加筆・訂正したものです)

真城 義麿(ましろ よしまろ)
1953年、愛媛県生まれ。大谷大学大学院修士課程修了。真宗大谷派善照寺住職。1997年から京都 大谷中・高等学校校長。
著書『つながりを生きよう』(東本願寺出版部)ほか

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