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■聞法とは本来、癌の告知を受けるようなもの
私たちが人の話を聞く時には五段階あります。第一段階はもっともひどい段階として、何を言われても無視する。第二段階は、聞いているふりをする。聞いていないけれども、相手には「聞いてもらえたかな」と思わせるように聞いているふりをするということです。第三段階は選択的に聞く。聞いた中の、自分にとって都合の良いことだけを受け取める。第四段階はすみずみまで一生懸命丁寧に聞く。注意深く聞くということです。第五段階は、感情移入して聞く。あるいは、共感的に話す人の身になって聞く。つまり、話している人とほぼ一体になってしまう。昔の聞法会だったら、その瞬間に聴衆の方からお念仏の声が高らかに聞こえてくるという具合に、他人事ではなくなってしまう。お話はお話と割り切れなくなってしまうのが第五段階です。
聞法とか学びには三段階があります。第一段階は今聞いていることを、できるだけ正しく身につけるということです。学校の勉強で言えば、その授業の中で教えられていることを正しく身につける。聞法ということで言えば、その時話されていることを勝手に解釈せずに、できるだけ言われた通りに身に付けることです。第二段階は今日まで聞法してきた事、勉強してきた事と今聞いた事とが重なる、繋がるということです。第三段階は、繋がったその事が私の生き方になっていく、私の生活になっていく、私の姿勢になっていくということであります。したがって、聞法というのは、本当は物凄くシビアなことであって、「良い話が聞けて嬉しい」というようなレベルのものではないのです。たとえば、日常生活の中で、第三段階までいく聞法とは、体にかなり調子の悪い所があって検査をして、その検査結果をお医者さんから聞く時でしょう。これは一言も、のがさず漏らさず本気で聞いて、自分の症状と重ね合わせ、はじめて生活が変わるのです。「あんたこれ以上飲んでいたらもう、命は保証しないぞ」と言われたら、呑んベぇーが飲むのをやめたり、ヘビースモーカーが煙草をやめたりというように生活が変わる。聞法の中で、我々がどのくらい罪が重いのか、我々がどのくらい重症で地獄へ行く身であるのかということが知らされるわけでありますから、そういった意味では、聞法とは本来、癌の告知を受けるようなものなのです。
■人間観
近代科学文明の現代社会が持っている人間観と、私たちが仏法を聞く中で教えてもらう人間観はかなり違います。
私たちは人間の価値をどこに見てしまうかというと、人間の“機能”ばかりを見てしまうのです。英語が喋れるとか、力が強いとか、走るのが早いとか、手先が器用とか、コンピューターが扱えるとか、料理が上手にできるとか、ファッションセンスがいいとか、いろいろなことがあります。何がどのくらいできるのか、というところに人間の価値を見ようとする。この機能価値によって職業に就き収入を得るわけですから当然ではあります。また、ある意味では、この機能を開発するのが世間一般の教育だと言ってもいいでしょう。 けれども、そこにばかり目がいくと、その機能が衰え失われた途端に、「私はもう値打ちがない」と思ってしまい、大変落ち込んでしまうのです。つまらない人間だと自分の事を思ってしまうのです。そういった人間の機能というのは目的別にあるのです。例えば会社の社長からすると、会計能力があるという機能は大変に価値が高いわけです。しかしその人が家に帰った時、家族からもその機能が同じように価値に見えるかどうかは別のことです。つまり、この機能だと思っていることは、必要性や見る人の求めるものによって全く価値が変わるということです。そういう機能的価値で見た人間を“人材”と言います。材料としての人間です。会社で良い人材が、社会や家庭で良い人材とは限りません。そういう非常に限定されたものであるにもかかわらず、そこに人間の価値を見る。人間そのものではなくて、人間を付加価値で見る癖がついているのです。ところが、そうではない人間の本体価値とも言える人間観、比べなくてもいい世界があるということを知らされる。そういう人間観を我々は聞法の中で教えてもらわなければならないのです。
親鸞聖人は、人間の凡夫性とか、罪の深さ、愚かさということを、これでもかというくらい見せつけてくださいます。法や真実に照らされて自分を知ると、極めて恥ずかしい事になってしまうのです。こんな私が生きていていいのか、この顔をさらしていいのかと思うくらいです。それでもさらすしかないのですが、私たちはまた悉有仏性(しつうぶっしょう)と呼ばれるように、私たちの中に仏性と呼ばれる素晴らしいものを種として、お預かりして生まれてきているということがあるのです。菩提心(ぼだいしん)と言ってもいいかもしれません。そういう私が本願のはたらきによって、救済されるのだという事に出会う。摂取不捨(せっしゅふしゃ)とは、その人をおさめとって捨てることはないということです。だから、どんな人も、どんな人生もどの瞬間も、どのひとときも捨てることはない、世の中に捨てられる人は一人もいない。逆に言えばどの人も皆必要であり、存在が肯定されているということです。人間の尊さというものは、何一つ損なわれることはないという人間観を聞法の中で教えてもらうわけです。
■仏教の世界観
仏教の世界観は、世の中はすべて縁起で成り立っているという事です。諸行無常も諸法無我も、一切皆苦も空の理論もすべて縁起です。縁起というのは難しい話ではなくて、字のとおりです。縁によって起こる。すべてが皆関係しあっているということで、それそのものが単独で起こることは何一つないという事です。ここが腹に落ちるか落ちないかで、あらゆることが変わってきます。なかなか腹に落ちないけれども、大事な事なのです。
世の中の、ありとあらゆるすべてのことが関係しあい、繋がっているのです。世の中に私と関係しないことは、何一つないわけです。しかし、私たちはなかなかその関係がわからないのです。たとえば、コーヒーを飲めば、コーヒーはたぶん日本では採れないでしょうから、ブラジルだとか外国のコーヒーでしょう。私がコーヒーを飲むということは、外国のコーヒー農園の人と私は関係者なのです。繋がっているわけです。日本から上がった日本の空気は、アメリカまで行って巡回しているということです。私たちが吐いた息をアメリカの誰かが吸うわけです。縁起ということは、関係性の中であらゆるものが存在しているということですから、私は世界の中心ではないのです。縁起の世界にいるかぎり、自分の思い通りになることはあり得ないのです。あらゆるものと関係しあっているから、私たちは思い通りに生きる事ができない。「不如意」(意の如くならず)なのです。しかしながら、思い通りにはならないけれど、なるようにはなるということです。道理にしたがって、なるようにはなっていくわけです。天気ひとつをとってもそうです。晴れる条件が整えば晴れるし、雨が降る条件が整えば雨が降るということです。そして、思い通りにならないけれど、思い通りにしたいのが私たちなのです。思い通りにならない現実と思い通りにしたいという私の気持ちとのギャップのことを、「苦」と言います。四聖諦の第一、人生は苦であるという真理です。私が苦しいのは、原因は外にあるわけではなく、私が思い通りにしたいから苦しいのです。だけど私たちは「そうはなりたくない」という都合がある。けれども現実は刻々とそうなっていくのです。このように、「苦」を簡単に解消できないように、私達はそうだとわかったからといって自分の力で何か解決するかといえば、何一つ解決しないのです。
私たちは科学的な論理思考が、人間の社会をレベルアップし、世界を豊かにしてくれると考えております。けれども、そういう論理思考、人間さえ良ければいいという考え方が、私にとっての価値だとすれば、見るものの先に幸せはない。近代の時代が目指そうとしているものが、実は闇に向かうしかないということが仏教のものの考え方によって知らされてくる。そして、修正されていくのです。
私たちが浄土真宗の教えを聞くという事は、私たちが持っている科学的思考とか、経済中心の価値観の危うさ、人間を非人間化していることを知らされるということです。環境条件が整って、あらゆるものが全部自分に都合良くて当たり前というころに立ってしまう私たちが、人間であり続け、人間になり続けるという人間性の回復をしていくためにはどうしていくのかということが、浄土真宗の教育ではないかと思うのです。
(※この講演録は加筆・訂正したものです)
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