真宗儀式の教相 ―「真宗の儀式論の前提」として
                             竹橋 太 氏
(2008年2月1日)
 教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の教化研修として、教学研究所所員・竹原太氏を講師に迎え、真宗儀式をテーマに講座が催された。
 その抄録を掲載し、ともすれば見過ごされてしまう「儀式」ということの持つ意味を、あらためて尋ね、ともに課題を見出していければと思う。

■儀式は、心も身体もワクワクする 

 現在、人間の生活は科学や経済の発達でドンドン便利になって、一人で暮らせるようになってきました。そうすると人間はものを考える“頭”だけで、一人のみで生活できるようになります。皆で一緒に仲良く騒げたら楽しいけど、意見が違ったら一人でいた方がいい。そんな世の中ではないかと思います。そういう中で、一人で“頭”だけで生きていることでは得られない生きる実感、身体にドンと当たるようなものがほしいという感覚、そういうものが求められているように思います。お経を読むとか、音楽でもいいですが、皆の声がそろったりして気持ちいいという感覚です。
 面白いもの、ワクワクするもの、身体と頭を一緒にして楽しむようなものを求めていませんか。例えばスポーツとかパチンコしている時は悩みは消えている。そんなものを求めるような生き方をしているんじゃないかと自分としても思います。
 まさにそういう、身体も心もよろこぶこととして考えるのが儀式の問題なんだろうなと見当をつけるわけです。そして、それが大谷派の教えを聞きたいという人に少しでもその教えが届くというような意味をもって行われたらいいなと思うのです。
 また一方で、身体がワクワクするということで仏教を語ってはいけないという考え方もあります。そうやって感情に走るのは危険だと。それは、そういう充実感を得たことで、自分自身が“正しさ”に出遇(であ)ったというふうに思うことができるわけです。儀式だとか陶酔感というのは、私は正しいんだという自己肯定をもたらすのです。だから儀式が危険だというのも確かにある。そういうことを考えていくと、儀式を知るということは人間を知るということなんです。

■儀式は、人間とともに始まった 

 文化人類学者の上田紀行さんが約六万年前のネアンデルタール人が死者に花を手向けていることが宗教の萌芽であり、またそのような死の認識が「人類における『世界』の発生」でないかと指摘しています。これは、「人」が死んでいると分かるということは、どういうことかということです。
 つまり、「この人は死んだ」と分かるということは、死んだ“彼”とそれを見ている“私”がいるということです。逆に言うと「私」がいるということは同時に、“私以外のもの”「世界」が発生しているということです。私たちは、さも「私」がいて「世界」を見ているというふうに感じて生きているわけですが、「私」ということがないと、「世界」があるということは分からないのです。
 そして「彼」が死んだと分かるということは、「自分」も死ぬんだと言えるということです。つまり、これは自分で「自分」を見ることができるようになったのです。だから自分から見たら「自分」自身も「世界」の一部なんです。
 だから、もし死んでいる人をみて「私」が発見されたのなら、「私」というものは“死ぬもの”として発見されている。“死ぬ世界を生きている私”として誕生しているんです。「死」というものに対して人間はいつでも何かを考えるものとして生まれてきたわけです。「死」は一番自分の思い通りにならないものであり、その「死」からの救いを求めるわけです。
 例えば、お釈迦さまの時代は死んだら生まれ変わるという世界を信じていた。その当時の人たちの救いを求める表現が「生まれ変わり=生死輪廻(しょうじりんね)」なんです。それをお釈迦さまは、そういう救いの求め方こそ苦である、「生死輪廻」は苦であるから、そこから解脱をしましょうとおっしゃるのです。さらに言えば、いい行いをしてもっといい輪廻をしたい、または悪いことをしたら地獄に落ちるんじゃないか、こういう不安を生きる生き方こそが苦だとお釈迦さまはお示しになられたのです。
 なぜ「生死輪廻」ということが考えられるのかというと、「死ぬ自分」を見る「自分」がいるからです。「人間が考える」というのはそういうことです。どこまでも外に立って自分を見てしまうのです。そしてそういう自分が間違っている、つまり、自分自身を受け取っていないということは仏教でなくても考えられるわけです。仏教はその止まない迷いの中でどう生きるのかと問うてくるのです。

■儀式は、〈自分〉と〈自分〉とをつなぐ 

 そういう人間のあり方の中で、自分で自分が受け止められないのです。〈見ている自分〉が〈見られている自分〉を見て、自分がこういう人間であるということが納得できないんですよ。“いまのたいしたことない自分は偽者で、俺はいつかやってやるぞ”というような傲慢さは〈見ている自分〉の立場で言うわけです。“自分探し”というようなことは、〈見ている自分〉が納得するような姿に〈見られている自分〉をしたいということですね。
 そういう形で〈見ている自分〉が勝ってしまっている。本当は〈見ている自分〉は〈見られている自分〉の中に、頭の中にちょっと居るだけです。それなのに、そうやって自分で自分を外から見る「自我」を持っているおかげで、〈見ている自分〉と〈見られている自分〉の間に“線”が入ってしまうのです。それが人間のものの考え方です。「私」と「世界」というふうに分かれたからです。「世界」としての「自分」を眺めて、「私」はその「自分」を認められない。
 しかし、それだからこそ、人間は進歩したわけですよ。そうやって自分に欠点があると思ったら、それをカバーする機械の発明などで、人間は自分自身がもっと完全になろうとする。科学というのはこの構図です。人間というのはこういう構図しかないんですよ。これを逃れることができない。
 〈見ている自分〉が、これはよくて、あれはダメだという“ものさし”をいっぱい持って生きているわけです。要するに“価値”で自分や人を見ているのです。そして、そういう善悪の“ものさし”をたくさん知っている人を大人だという。善悪の“ものさし”が積もり積もって「私」ができていて、その「私」は「私」自身が受け取れない。つまり人間とは引き裂かれた孤独な存在、自分自身が二つに分かれているのです。
 そういう我々が求めるのは、自分自身が生きるということを受け取らないで、〈見ている自分〉の目が理解できるかどうかということだけです。でもやっぱり〈見られている自分・実体〉を受け取りたいわけですよ、〈見ている自分〉と〈見られている自分〉をつなぎたい。例えば我を忘れて何かに熱中している時は楽しい、それはこの二つが分かれていないからです。そういうことを求めるのです。そして、儀式のもたらすものこそがそういう一体感です。
 根源的には自分自身がバラバラになっている存在だからこそ、一体感をもたらす儀礼というものが力を持つわけです。皆で一緒に『正信偈(しょうしんげ)』をあげることによって、ああ同じ方向を向いているんだという充実感です。


■儀式は、排除する。南無阿弥陀仏は……

 しかし同時に、皆が “絶対的”なものの方に向くことで、孤独を抱えている一人ひとりが一体感を持つという儀式の性質が問題なのです。ヒトラーはゲルマン人、天皇制は天皇の臣民であることを“絶対的”なものとし、国家を一つにまとめて、そこに充実感を持たせました。このあり方は、同じ方向を向けない人を排除するのです。
 我々が阿弥陀さまを絶対化し儀礼をするということは、そういう排除の方向になっている可能性があるわけです。儀式を大事にすることはそういうところへ堕ちていく怖さがある。でも、お念仏はそういうこととは“方向”が違うのです。絶対化して“閉じる”のでなく、全てに“開く”ような方向を持った儀式なのです。
 南無阿弥陀仏と言えない人は排除されるというのは、儀式が人間の“表現”であることの限界です。それでも、ある絶対的なものを立てて皆でそこに向かうという儀式という形をとるのは、人間だからです。しかし、南無阿弥陀仏という儀式は、そういう限界を超えるような“方向”、そういう意味での絶対性を示しているということを明かすのです。
 排除するという面を持っているということを知りながら、方便として、南無阿弥陀仏が我々の中に確認されていれば、儀式もできるわけです。儀式の後にお説教したり、日々のお付き合いができる。儀式は儀式として気持ちよく、格好よく、人の気持ちを引くようなことをしながら、しかし、それは限界を持ったもので、その限界を乗り越えるような“方向性”が実は南無阿弥陀仏なんだということを自分自身でしっかり確認していただきたいと思うわけです。
(文責編集部)

(※この講義抄録は加筆・訂正したものです)

竹橋 太(たけはし ふとし)
1962年北海道生まれ。大谷大学大学院博士課程修了(仏教学専攻)。現在、真宗大谷派教学研究所所員。

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