『唯信鈔文意』に学ぶ ―宗祖と同朋の人びと   <第1講>
                             神戸 和麿 氏
(2005年2月14日)
 教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の基礎講座として、神戸和麿氏による「『唯信鈔文意』に学ぶ−宗祖と同朋の人びと」が行われた。
 その抄録を掲載し、私たちの生活の周辺にある様々な問題を通して、このテーマから浮びあがってくる課題を共有していければと思う。
『唯信鈔文意』

 親鸞聖人著。同じ法然上人門下の兄弟子にあたる聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文等について注釈したもの。聖人はたびたび『唯信鈔』を書写し、門弟にその味読を勧めていたことが御消息からも知られる。
 現存する『唯信鈔文意』の中で、聖人の真筆とされるものは2 冊あり、いずれも高田専修寺に伝わる。奥書には、それぞれ康元2(1257)年と記されており、聖人85歳の筆である。また現存する古写本の奥書によれば、建長2(1250)年(親鸞78 歳:盛岡本誓寺本)が最も早い年次を記しており、これが著述年次されている。(参考資料『親鸞聖人真蹟集成』8巻)

■私が真宗門徒になる

 今回、『唯信鈔文意』を皆さんと一緒に学ばせていただきます。最近、親鸞聖人が晩年に書かれました『唯信鈔文意』などの仮名聖教に私は関心があるからです。
 唯信鈔文意』は、その最後に記されているように「いなかのひとびと」、また「愚痴きわまりなき」人びと、つまり、民衆に教えを伝えたいという宗祖の願いがあります。教えが教義ではなく、本願の念仏に生きる道を民衆の人びとと共に明らかにされたのです。本願念仏の教えをわが人生、わが身に聞き、すべての人と共に救われていく道が示されています。いい換えますと自信教人信の道です。仏道の課題をどこまでもわが身、人生に受け止め、他の人と共に生きられたということです。
 この自信教人信ということは、まず私たち一人ひとりが真宗門徒になるということです。そして同朋、朋なる人びとと共に歩む。つまり、真宗、真実の宗(むね)を自ら信知し、仏の教えに照らされる道が、自信教人信の共なる道、歩みというのです。時代社会はさまざまな問題があります。そういう中、仮名聖教を通して私たちの人生、不安や苦悩のある人生が本願に喚び覚まされ、根本のいのち、主体を回復していく歩みとなるのか。そういうところに教えを聞き学ぶという課題があるのではないでしょうか。

■現実問題と念仏

 『唯信鈔』は、法然の『選択集』の和語、仮名聖教です。そのはじめに、「そもそも名号をとなうるは、なにのゆえに、かの仏の本願にかなうとはいうぞというに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏になりたまわざりしむかし、法蔵比丘ともうしき」と言われています。これは、『選択集』「本願章」の内容です。法然はこの弥陀の本願を説く「本願章」で、ただ念仏だけを説いているわけではありません。そこには本願文の第一願から第四願までが示されていますが、やはりこの四つの願に現実問題が押さえられていると思います。現実問題を失って、単にただ念仏だと法然上人は言っているわけではないということです。
 まず第一の「無三悪趣の願」、第二の「不更悪趣の願」。三悪趣とは、地獄、餓鬼、畜生です。それこそ人間が傷つけ害し合う世界です。餓鬼道は自分さえ良ければよいという私たちの現実です。法然上人当時でいえば源平の争いです。熊谷直実が敵の大将であった平敦盛を殺し、罪の咎に泣く。そんな中に救いの道を求めていくわけでしょう。それぞれが平和を願いながらも絶えることのない人殺しの問題です。そういう私たちの問題がどこで超えられていくかということです。
次に第三の「悉皆金色の願」、これは平等ということでしょう。それから第四の「無有好醜の願」は、差別の問題です。当時、比叡山は一乗を旗印にしながらも女人禁制でした。また一般の商人、農民は、清浄の地である比叡の山には薬草を採りに来ることもできない。まして猟師や漁師は殺生罪業の身で仏道から疎外されていた。つまり修行者だけが救われていくような道でしょう。
 そのような中で、この現実を押さえて、私たちの生きている穢土を痛み、この穢土を超える道が「念仏往生の願」―、如来選択本願の願心に目覚め生きる往生道です。

■本願に目覚め、独立していく道

私たちの日々の生活は、自我分別を中心とした、一つは能力主義、もう一つは利益追求の中にあります。それは大学でもそうでしょう。大谷大学にしても同朋大学にしても、親鸞聖人の教えを中心にしている。しかし平等一如だといってもやはり現実は能力で評価されます。それから、企業は競争社会でしょう。利益を失って企業は成り立たちません。
 つまり私たちの現実、生活は、Society(社会)に対してCommunity(共同体)を喪っています。願生浄土、往生浄土というのは、能力、利益において限りなく差別し合い、また利益のみにどんどん走っていく社会、そういう在り方の中で本願力の信念が生み出す共同体の道です。平等一如の願心に目覚め、生きる共同体―、その共同体形成、歩みは、のっぺらぼうの平等ではありません。浄土と穢土の二重国籍に生きる現生正定聚の機の歩みです。その道は、血筋とか郷土的なつながりとか、民族的なつながりとか、そういうあり方を超えて歩む平等一如の世界です。つまり、上からの公(おおやけ)性でなく、下、民衆の側からの「公」、共同体形成です。
 『唯信鈔文意』に、「唯信鈔」というは、「唯」は、ただこのことひとつという。二つならぶことをきらうことばなり。また、「唯」は、ひとりというこころなり」とあります。「唯」とは、「このことひとつ」という自覚、どんな人にも開かれている、ただ一つのものです。そして、「ひとりというこころなり」とは、孤独という意味ではありません。独立者です。本願に目覚め、独立していく道。そして、そこに平等の世界、また一つの共同体形成が開かれてくる。そのことが教えられているわけです。それこそいのちが見えなくなり、民族と民族のエゴで殺し合っていく。そういう時代社会の問題を押さえて、本願の信念に目覚め共に生きる道を教えて下さっているのでないでしょうか。

(※この講演録は加筆・訂正したものです)

神戸和麿(かんべかずまろ)
1939年名古屋市生まれ。1962年、同朋大学文学部仏教学科卒業。1967年、大谷大学大学院博士課程満期退学。大谷大学教授を経て、現在、大谷大学名誉教授、同朋大学特別任用教授、博士(文学)、西照寺住職。著書『清沢満之 その思想の軌跡』『清沢満之の生と死』(以上法藏館)、『浄土論註・観経疏(大乗仏典5)』(中央公論新社)

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