『唯信鈔文意』に学ぶ ―宗祖と同朋の人びと   <第10講>
                            神戸 和麿 氏
(2006年11月13日)
 教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の基礎講座として、神戸和麿氏による「『唯信鈔文意』に学ぶ−宗祖と同朋の人びと」が行われた。
 その抄録を掲載し、私たちの生活の周辺にある様々な問題を通して、このテーマから浮びあがってくる課題を共有していければと思う。
『唯信鈔文意』

 親鸞聖人著。同じ法然上人門下の兄弟子にあたる聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文等について注釈したもの。聖人はたびたび『唯信鈔』を書写し、門弟にその味読を勧めていたことが御消息からも知られる。
 現存する『唯信鈔文意』の中で、聖人の真筆とされるものは2 冊あり、いずれも高田専修寺に伝わる。奥書には、それぞれ康元2(1257)年と記されており、聖人85歳の筆である。また現存する古写本の奥書によれば、建長2(1250)年(親鸞78 歳:盛岡本誓寺本)が最も早い年次を記しており、これが著述年次されている。(参考資料『親鸞聖人真蹟集成』8巻)
■「同一」と言える世界

 私たちの日常生活は、大きい小さい、優れている劣っているという日暮らしです。それが私たちの価値観です。ところが念仏に目覚めることを、曇鸞大師は「同一念仏無別道故 遠通夫四海内皆兄弟也」(『真宗聖典』282ページ)と言われています。如来の眷属、仲間、兄弟であると。そのことは、才能、性格、様々な違いを生きている私たちが、どこで「同一」ということが言えるかということでしょう。本願を信じ、念仏もうす目覚めに「同一」、あらゆる存在の根底に流れる一つの根拠が知られるということです。『唯信鈔文意』には次のように言われます。
具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)、屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏(むげこうぶつ)の不可思議の本願、広大智慧(ちえ)の名号(みょうごう)を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩(ぼんのう)を具足しながら、無上大涅槃(だいねはん)にいたるなり。具縛(ぐばく)は、よろずの煩悩(ぼんのう)にしばられたるわれらなり。煩(ぼん)は、みをわずらわす。悩(のう)は、こころをなやますという。屠(と)は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうし(猟師)というものなり。沽(こ)は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人(びと)なり。これらを下類(げるい)というなり。「能令(のうりょう)瓦礫(がりゃく)変成金(へんじょうこん)」というは、「能(のう)」は、よくという。「令(りょう)」は、せしむという。「瓦(が)」は、かわらという。「礫(りゃく)」は、つぶてという。「変成金(へんじょうこん)」は、「変成(へんじょう)」は、かえなすという。「金(こん)」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人(びと)、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。 
(「唯信鈔文意」『真宗聖典』552ページ)
「広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり」、煩悩具足の「いし・かわら・つぶて(小石)のごときわれら」は、日々の暮らしの中に本当に大事なものが見つからない生活と言えるでしょう。宝はよそにあって、我が身はつまらぬと思ってしまう。それが私たちの心です。そのつまらぬものだと思っている生活の中に尊い値打ち(こがね)があると、先の文は教えています。長く仏教は聖道(しょうどう)という出家の形でした。女性や猟師、漁師、商人は疎外されていた。そのような人々は、法然上人の念仏の教えに出遇(であ)って初めて「同一」という世界に目覚めていきます。法然上人は、「ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。」(「和語燈録」巻五)と仰せられた。
 その教えを受けて宗祖は、僧、俗の身分を超えた妻帯僧の道を歩まれます。明治の文豪夏目漱石が、「模倣と独立」という第一高等学校での講演で、宗祖のあり方を讃えています。
坊さんというものは肉食妻帯をしない主義であります。それを真宗の方でずっと昔から肉を食った。女房を持っている。これはまあ、思想上の大革命でしょう。親鸞聖人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根底のある思想を持たなければあれほどの大改革は出来ない。言葉を変えて言う場合、親鸞は非常なインデペンデント、独立の人といわなければならない。そして自分のとるべき道はそうでなければならない。他の坊主と歩調を共にしたいけれど、如何せん独り身の僕はただ女房を持ちたい。肉食をしたい。そんな意味ではない。その時分に、今でもそうだけれど思い切って妻帯し、肉食するという事を公言し断行してごらんなさい。どの位の迫害を受けるかわからない。もっとも迫害など恐れるようではそんな事はできない。そんな小さな事を心配するようではそんな事はし切れないでしょう。そこにその人の自信があり、確乎たる精神なりがその人を支配する権威があって初めてああいう事が出来るのである。だから、親鸞聖人は一方では人間全体の代表者かもしらんが、一方では著しき自己の代表者である。
 〔『夏目漱石文明論集』(岩波文庫)〕
 「同一」ということがどこで言えるかという問題、つまり「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」、在家止住の僧伽(さんが)、非僧非俗(ひそうひぞく)の道です。

■浄土はユートピアではない

 仏道は三宝帰依の道です。仏とは目覚めた人です。そして目覚めた真理はダルマ、法です。その目覚めた人・仏の弟子が僧、僧伽(共同体)です。そして、帰依三宝のありかたを浄土経典においては、単なる耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の出家の比丘(びく)教団にとどまらず、在家の人々と、王舎城(おうしゃじょう)の人々を包んで示したのが『観無量寿経』です。
 釈尊は耆闍崛山でつねに仏弟子にご説法をされていたのですが、『観無量寿経』では、人生に苦しみ、悩む女性、韋提希(いだいけ)を対告衆(たいごうしゅう)として説かれています。
 私は『観無量寿経』の序分を読む時、三つの問題があると思います。一つは、いつの世にも変わることのない臨終現前の問題、つまり人が直面する死の問題。そして、二つにはカースト制、差別の問題。三つ目は、国位を貪る部族間の殺し合い、つまり戦争問題。この三つの問題は、今日私たちが担っている「死への畏れ(不安)」「差別」「戦争」の問題と言えるでしょう。
 「同一に念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるに、それ四海の内皆兄弟とするなり」、そのことは現実の問題を捨象したユートピアの浄土ではなく、どこまでも私たちが生きているこの五濁(ごじょく)の世にどう現生正定聚(しょうじょうじゅ)の道が開かれてくるかということだといえるでしょう。
 僧、僧伽というのは、単なる共同体ではなく、仏法に帰依した共同体です。目覚めた人が教えてくださったダルマ、(法)を人生の灯(ともしび)として、そこに集う人々ということです。釈尊の教えは、自我の心に閉塞し生きているものが法に目覚め、共なる平等の地平に開かれてくるという教えです。それは、私たちがかかえる現実の問題が解消したり、問題がなくなるというようなユートピアとしての浄土ではないわけです。
 私たちが生きている現実は、日々、身を煩わし、心を悩ませて生きているのです。ところが南無阿弥陀仏・「広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり」、身近に尋ねれば、
十方(じっぽう)微塵(みじん)世界
念仏の衆生をみそなわし
摂取(せっしゅ)してすてざれば
阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる
 (「浄土和讃」『真宗聖典』486ページ)
 私たちはみな、この阿弥陀如来の「摂取して捨てず」という願心の中に摂取されていながら、如来の用(はたら)きを忘れはててしまっている。そして、どこまでも自我関心に閉ざされ、私たちの心(識)は迷いがいっぱいで、苦しみの種の中に日々はあります。仏の教えだけが、いつも迷いの心でウロウロしている我執、苦しみの種の蔵を転じ、「広大智慧の名号」、仏さまの功徳がいっぱいおさまっている法の蔵を開いてくるのです。

■具縛の凡愚に生きられた聖人

 親鸞聖人が、私たちの凡夫の心、すぐに不平不満、いつも迷いの心でウロウロしている我執の身を、次にように言われています。
自力(じりき)というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根(ぜんごん)をたのむひとなり。
(「一念多念文意」『真宗聖典』541ページ)
 「わが」と執着した身と心と力、「わが」善根をたのみとする。凡夫は単に自分は愚かだというのでなく、真理に昏(くら)い、無明(むみょう)の身です。自分の勝手のいい心を中心として、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむ」生活です。そういう私を「広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり」と、本願の名号は呼び覚ましてくるのです。
 如来のはたらきということを、金子大栄(かねこだいえい)先生は「松は松の如し、竹は竹の如し」といい、「如」を純粋の事実と教えてくださいます。私たちはこの純粋の事実の中にありながら、自我分別を中心にしてしか生きれません。『阿弥陀経』でいわれる「地中蓮華、大如車輪。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」(『真宗聖典』126ページ)これは智慧、純粋の事実です。一つ一つのいのちの輝きです。人間の分別(ふんべつ)からは言えません。私たちの日々は、白がいいとか黄色の方がいいとか分別(ふんべつ)ばかりで、ある時は優越感を持ち、ある時は劣等感に沈んで、煩悩にとらわれた迷いの心を生き続けているのが私たちの姿です。
 しかし、そのような私たちに「広大智慧の名号」、「摂取して捨てず」という如来の願心は、わが身はつまらないと思っているところに大事な宝がある、そのことに目覚めよ。私の脚下(あしもと)に来ている広大な「いのち」の恵みに目覚めよと呼ぶ。そこに日頃の自我意識を中心としているわが身の姿が照らされ、阿弥陀のはたらきの中に「同一(どういつ)に念仏して、遠(とお)く通ずるにそれ四海(しかい)の内みな兄弟なり」というダルマコスモス(法界)があると言う。親鸞聖人はわが身を「具縛の凡愚」と大地に伏し、仏の智慧の光に照らされて生きていかれたのです。
 十回のシリーズ、まだ幾つかの課題はありますが、これで終わらせていただきます。(了)
(※この講演録は加筆・訂正したものです)
神戸和麿(かんべかずまろ)
1939年名古屋市生まれ。1962年、同朋大学文学部仏教学科卒業。1967年、大谷大学大学院博士課程満期退学。大谷大学教授を経て、現在、大谷大学名誉教授、同朋大学特別任用教授、博士(文学)、西照寺住職。著書『清沢満之 その思想の軌跡』『清沢満之の生と死』(以上法藏館)、『浄土論註・観経疏(大乗仏典5)』(中央公論新社)

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