『唯信鈔文意』に学ぶ ―宗祖と同朋の人びと <第5講>
神戸 和麿 氏(2006年1月16日) |
教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の基礎講座として、神戸和麿氏による「『唯信鈔文意』に学ぶ−宗祖と同朋の人びと」が行われた。
その抄録を掲載し、私たちの生活の周辺にある様々な問題を通して、このテーマから浮びあがってくる課題を共有していければと思う。 |
『唯信鈔文意』
親鸞聖人著。同じ法然上人門下の兄弟子にあたる聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文等について注釈したもの。聖人はたびたび『唯信鈔』を書写し、門弟にその味読を勧めていたことが御消息からも知られる。
現存する『唯信鈔文意』の中で、聖人の真筆とされるものは2 冊あり、いずれも高田専修寺に伝わる。奥書には、それぞれ康元2(1257)年と記されており、聖人85歳の筆である。また現存する古写本の奥書によれば、建長2(1250)年(親鸞78
歳:盛岡本誓寺本)が最も早い年次を記しており、これが著述年次されている。(参考資料『親鸞聖人真蹟集成』8巻) |
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■自来迎
「弥陀無数の化仏、無数の化観音、化大勢至等の、無量無数の聖衆、みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり」
という自来迎、つまり願力自然のはたらきです。そのことが金剛の信心の目覚め、即得往生の正定聚のくらいに住すとしめされています。ことに浄土思想において自来迎ということは、一般の仏道、その歩みは人間の方から仏になっていくことを証明していくあり方です。人間の方から迷いを絶ち、煩悩を絶ち仏になろうとする。ところが、ここでの親鸞聖人の了解、自来迎とは佛の方が人間の迷い、流転を包んで、そして仏になる道を仏の方から証明されているということです。そういう意味で如来回向の働きが明らかにされているといえるでしょう。
『唯信鈔文意』の、「『唯』というは、ただこのことひとつをいう」。また「ひとりというこころなり」と。ここでの「このことひとつ」といいますのは、私たちが人生を生きていくなかで本当の基礎となる道をみひらくということです。これが真実の基礎です。清沢先生の言葉でいいますと、「処世の一つの完全なる立脚地」でしょう。私たちが人生を処していくなかで、立つところをどこで見出すかということです。
仏道の問題は生死、不安、悩みの人生の中そこを超えていく道を仏陀釈尊は教えられています。いろいろ人生苦の中、愛別離苦・怨憎会苦という人生の迷いの本を抜く、そこに正覚の成就はある。その正覚とは仏陀一人の正覚ではなく、どんな人にも恵まれている平等法身です。どんな人にもひらかれてる法界(ダルマ、コスモス)、法の世界を教えてくだされた。つまり念仏申すということは、私たちの立つ基盤が開かれるということです。
■正覚の座からの展開
無量大宝王 微妙浄花台
相好光一尋 色像超群生
如来微妙声 梵響聞十方
同地水火風 虚空無分別
(『浄土論』真宗聖典p.137)
「無量大宝王、微妙の浄花台にいます。」これは仏の座功徳です。それから「相好の光一尋なり、色像、群生に超えたまえり」。これは仏の身業功徳です。そして「如来の微妙の声、梵の響十方に聞こゆ。」これは仏の口業功徳です。続いて「地・水・火・風・虚空に同じて、分別なからん」。仏のその心業功徳、仏の正覚(さとり)のこころです。そのように展開されてくるわけです。まず仏の荘厳は座です。正覚をひらかれた座から始まっている。お釈迦様の正覚(さとり)はどこまでも十方衆生の苦悩を包んだ「無量の大宝王と微妙の浄花台にいます」と讃えられているわけです。釈尊一人のさとりではない。平等法身という世界を苦悩する衆生に大いな宝として恵み教えてくだされたのです。
この座功徳を曇鸞大師は『観無量寿経』の華座観にて了解されています。菩提樹下で正覚(さとり)を開いた仏、座ってみえる仏、座像ではなく、どこまでも住立空中の阿弥陀如来です。立ち上がってみえる阿弥陀如来の姿です。どこまでも六道に日々沈み、落ち込んでいく衆生に対して、座ってはいられない、立ち上がって衆生を救わんとするそこが『観無量寿経』の華座観です。『歎異抄』でいえば、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたすける本願のかたじけなさよ」という、正覚からの衆生を助けようという本願の展開といえるでしょう。
それ故華座が「かくのごときの妙華は、これ本、法蔵比丘の願力の所成なり。」どこまでも苦悩の衆生、闇の中に苦悩する衆生を摂して、衆生を呼び覚まそうという法蔵因位の願心、自我に眠れる魂を呼び覚ますはたらきです。つまり自来迎というのは仏の方から衆生を包んで、衆生が仏になる道を証明し、呼び覚ましてくださるのです。人間の方から仏になる道を証明していくのではない。仏の方から私たち衆生を包んで、法に目覚めよという名号、私たちの脚下の法に目覚めよということが、如来の回向、つまり願力自然に業道自然を包んだはたらきです。
■仏智の光に照らされて
諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまう
(『高僧和讃』真宗聖典p.493)
私たちの身口意は常に深い我執が絡んでいます。善心が悪心になり、自分で真実心だといっているのですが虚仮の心になっていく。そこに虚誑(こおう)、左訓には「悪業煩悩のこころなり」といわれている。そういう私たちの虚誑の三業をどこまでも仏の光明、妙声(名号)が呼び覚まし、平等の願心に目覚ましめる。つまり三悪道、虚誑、「悪業煩悩のこころ」を生きる私たちの生活を仏智に照らして、本当の基礎、立脚地を見開くということです。
私たちは我見、自我分別を中心として都合の悪いことを嫌い、いやなものから逃れたい、邪魔者は消したい、そういう都合のよい要求を生きています。仏智はわがままな、エゴの生活を照らしてくる。また自分の命だ、自分の命だといって私有化していく有身見です。すべてを我がものにしていく。自然内存在でありながら私たちは、私の身体だ、私の人生だ、私の命だと、すべてを私有化していきます。私の命だから私の思うようになって当然だ。思うようになって当たり前だという我見、執着深い我執のこころを罪業の身を知らせてくる。また命を私有化して生きる。そこに深く煩悶していく私を如来の智慧(光)は照らしてきます。
人間順境にあるときはいいのですが、逆境に陥ったとき一番受け止め難いのは業です。我が業です。業というのは誰にも代わってもらえない一人ひとりの宿業です。取り替えることのできない我が業をどこで受け止めていくか。そういう意味で我見、有身見によって、生き続け、煩悶する私たちの業を、仏智の光は念仏申す一念、一念に煩悶、苦悩する私の無明を破り、如来内存在の新しい命、主体に目覚めさせ歩ませるのです。
(※この講演録は加筆・訂正したものです)
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神戸和麿(かんべかずまろ)
1939年名古屋市生まれ。1962年、同朋大学文学部仏教学科卒業。1967年、大谷大学大学院博士課程満期退学。大谷大学教授を経て、現在、大谷大学名誉教授、同朋大学特別任用教授、博士(文学)、西照寺住職。著書『清沢満之 その思想の軌跡』『清沢満之の生と死』(以上法藏館)、『浄土論註・観経疏(大乗仏典5)』(中央公論新社)
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