| 『唯信鈔文意』に学ぶ ―宗祖と同朋の人びと <第7講> 神戸 和麿 氏(2006年5月15日) |
| 教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の基礎講座として、神戸和麿氏による「『唯信鈔文意』に学ぶ−宗祖と同朋の人びと」が行われた。 その抄録を掲載し、私たちの生活の周辺にある様々な問題を通して、このテーマから浮びあがってくる課題を共有していければと思う。 |
| 『唯信鈔文意』 親鸞聖人著。同じ法然上人門下の兄弟子にあたる聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文等について注釈したもの。聖人はたびたび『唯信鈔』を書写し、門弟にその味読を勧めていたことが御消息からも知られる。 現存する『唯信鈔文意』の中で、聖人の真筆とされるものは2 冊あり、いずれも高田専修寺に伝わる。奥書には、それぞれ康元2(1257)年と記されており、聖人85歳の筆である。また現存する古写本の奥書によれば、建長2(1250)年(親鸞78 歳:盛岡本誓寺本)が最も早い年次を記しており、これが著述年次されている。(参考資料『親鸞聖人真蹟集成』8巻) |
| ■自我意識の根底に潜む生死の不安 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金 (五会法事讃『真宗聖典』五五〇ページ) 宗祖は、法照が著した『五会法事讃』を大事され、『教行信証』をはじめ『唯信鈔文意』でもその意義を尋ねられています。 「彼仏因中立弘誓」このこころは、「彼」は、かのという。「仏」は、阿弥陀仏なり。「因中」は、法蔵菩薩ともうししときなり。「立弘誓」は、「立」は、たつという、なるという。「弘」は、ひろしという、ひろまるという。「誓」は、ちかいというなり。法蔵比丘、超世無上のちかいをおこして、ひろくひろめたまうともうすなり。 (『真宗聖典』五五〇ページ) 聖覚の著した『唯信鈔』では、自分の名前さえ覚えることが出来ない周利槃特(チューラ・パンタカ)が、「塵を払い垢を除かん」という一行を釈尊に与えられたことにより真の仏弟子となっていく姿を通し、念仏往生の願によって万人が救われていく道を顕しています。それを受けて、今読んだところに宗祖の『教行信証』を通した一つの了解が示されているわけです。 『大無量寿経』の教えは、一人の法蔵比丘が道を求めていくところから始まります。「嘆仏偈」が始まる前のところに、国王である法蔵比丘が世自在王仏に教えを聞くわけです。それは、ただ聞いたということで終わらずに、「無上正真道意」という「仏陀の目覚めた世界への道を歩みだそう」という新しい一歩(選択)が起ったことが示されているのです。 法蔵は一人の国王ですから、名誉もあり、地位もあり、権勢も一般の人よりあるわけです。しかし、一人の国王が仏の説法を聞き、道を求めるというところには、如何に国王であり富豪であっても、生死の問題から抜け出すことはできない。龍樹の言葉でいえば、五怖畏(ごふい)です。そのような生死の闇・不安を抱えている中で世自在王仏の教えを聞思する。その法蔵の歩みは、私たちが聞法することを示している。私たちの人生は、常に生死の不安や闇が内在されているということです。 そして、世自在王仏というのは、その字が示しますように「世を超えた自在なる王」つまり、煩悩と生死の繋縛を超えて「如なる世界に目覚めた人」ということです。これは仏陀の覚った法界を示します。生死の不安に迷妄する私たちは、何を本当の灯火(ともしび) とし、依りどころとするのか。世自在王仏は、そのような私たちに煩悩と生死の繋縛を越えて、真の「人間」の根拠・立脚地に目覚めさせる根源なる生命となっている「一如宝海」の功徳を恵むのです。 だからこそ、穢国の王(法蔵比丘)が世自在王仏の教えに遇い、真実の国(浄土)を「摂取・選択」するのです。『大経』では「摂取仏国」といわれています。世自在王仏の教えてくださっている真如一実の宝海である仏の国を法蔵が選ぶということです。ここでの国とは、人間の考えたイデアだとか、理想の国ということではない。どこまでも「一切衆生を摂取して自己とする」一切衆生の立つ所が仏国です。前にも申しましたように安田理深先生は「存在の故郷」、龍樹の言葉で言えば「如来の家」です。『唯信鈔文意』では「法性のみやこ」といわれています。 私たちの生きている現実は「仏国の浄土」に対しての「穢土」です。「穢土」とは自我心に執したところであり、それぞれが自我によって構築している世界です。この自我と自我によって構築されている世界は、互いの領域が調和しているときもありますが、調和しないときは傷つけ害し合うのです。煩悩の心を生きる身でありますから、所有欲もあれば征服欲もある。一緒に生きながら顔を合わせれば背き合うようなものを常に生み出しているのが三悪趣、私たちの穢土の現実です。 ■法蔵比丘と世自在王仏との出遇いが顕しているもの 法蔵比丘が世自在王仏に出遇い、教えを聞いたというこの事柄は、何を明らかにしているのでしょう。これは、私たちが日ごろ追い求めている豊かさや地位や名誉・権勢というようなものでは、真の満足を得ることはできないということであり、できることなら避けて通りたい人生苦の中にこそ、道があるということでしょう。その中で「一如宝海の仏の魂」である「名声の呼び喚け」を聞き、その呼び喚けを我が身に「聞名」する。そして「往生道、不退転」を得るということなのです。まさに「彼仏因中立弘誓」とは、そういう内容をいっているわけです。 法然上人は、先ほどの法蔵比丘が世自在王仏の「仏国を摂取する」ということについて、 選択と摂取、その言異なるといえどもその意一なり (『選択本願念仏集』) といわれています。この選択というのは人間の方からあれかこれかを選択するということではないのです。 普通我々は、仏教の始まりといえば、歴史的人物である釈尊から始まるわけです。釈尊から始まる仏道了解は非常に解かりやすいです。しかし、釈尊を釈尊たらしめた根源、根本を明らかにする。これが釈尊を超えて釈尊を見るということです。釈尊を超えて釈尊が見出したところの真理、それを表わすのが弥陀の本願です。これが「選択」ということです。そのことは『選択集』にあらわされています。 「かの仏の因中に弘誓を立てたまえり」とは、どこまでも阿弥陀です。釈尊から仏教を見るのではない。そうなってしまうと『法華経』が優れているとか『華厳経』が、という優劣論に終始してしまいます。事実、長い間やってきたわけです。法然上人の選択本願の念仏の教えは、釈尊を超えて釈尊が覚ったところの根源を明らかにする。それが弥陀の本願であるということです。 ■私たちの宗教心と親鸞聖人の宗教心 「称名念仏とは帰命」、本願に帰するということです。しかし、人間の帰するところは迷信・罪福信です。私たちが何かを信じようというときは怖れです。不幸があるというところに何か「人間を越えた超能力にすがりたい」「幸せが欲しい」「病気から免れたい」というのが私たちの宗教心です。宗教心はここから起こるけれど、ここに留まらせないのが親鸞聖人の宗教心です。ですから人間が何かに帰するというわけではなく、どこまでも如来の発願回向です。「一如真実の宝海に目覚めよ」と。それで阿弥陀はどこかに有るとか無いというのではなしに、阿弥陀の行の目覚めのことです。如来の発願回向のはたらき、一如の行の目覚めのことです。 蓮如上人でいえば、 仏法をあるじとし、世間を客人とせよ (「御一代記聞書157」『真宗聖典』八八三ページ) 弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり (「御一代記聞書239」『真宗聖典』九〇〇ページ) です。それが称名念仏でしょう。向こうの方に南無阿弥陀仏を置いて称えるということではないですね。南無阿弥陀仏が本来の自己だという覚醒です。そして自我分別を中心として生きる世界が客になる。主客の転換です。 蓮如上人は、そういうところに機法一体ということを見い出し、自覚することを教えられています。助けられる衆生と助ける如来をなんとか合わせようとする。ああなったら救われるか、こうなったら救われるか。しかし、衆生が助けられる側で、如来は助ける側という二元の関係ではない。機法一体ということは、如来と衆生との分限です。都合のいいものを求め、悪いものを嫌い、嫌なものは消してほしいという私たちの自我意識の構造を破り、罪障の身を照らすのです。画く私、画かれる仏という二元ではないです。二元でしたら、自我分別を物差しとして「私は罪深いです」、だから「念仏を称えて助けてください」と二つに割ってしまう。それは一体ではない。つまり「前念命終、後念即生」という自我意識が転じて、如来の願に生きるということです。 (※この講演録は加筆・訂正したものです) |
| 神戸和麿(かんべかずまろ) 1939年名古屋市生まれ。1962年、同朋大学文学部仏教学科卒業。1967年、大谷大学大学院博士課程満期退学。大谷大学教授を経て、現在、大谷大学名誉教授、同朋大学特別任用教授、博士(文学)、西照寺住職。著書『清沢満之 その思想の軌跡』『清沢満之の生と死』(以上法藏館)、『浄土論註・観経疏(大乗仏典5)』(中央公論新社) |
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