| 『唯信鈔文意』に学ぶ ―宗祖と同朋の人びと <第8講> 神戸 和麿 氏(2006年7月10日) |
| 教区・組の教化活動を担う若手僧侶の育成を願い行われている教化センター研究生制度の基礎講座として、神戸和麿氏による「『唯信鈔文意』に学ぶ−宗祖と同朋の人びと」が行われた。 その抄録を掲載し、私たちの生活の周辺にある様々な問題を通して、このテーマから浮びあがってくる課題を共有していければと思う。 |
| 『唯信鈔文意』 親鸞聖人著。同じ法然上人門下の兄弟子にあたる聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文等について注釈したもの。聖人はたびたび『唯信鈔』を書写し、門弟にその味読を勧めていたことが御消息からも知られる。 現存する『唯信鈔文意』の中で、聖人の真筆とされるものは2 冊あり、いずれも高田専修寺に伝わる。奥書には、それぞれ康元2(1257)年と記されており、聖人85歳の筆である。また現存する古写本の奥書によれば、建長2(1250)年(親鸞78 歳:盛岡本誓寺本)が最も早い年次を記しており、これが著述年次されている。(参考資料『親鸞聖人真蹟集成』8巻) |
| ■仏法が生活になる 「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃) 「極楽無為涅槃界」というは、「極楽」ともうすは、かの安楽浄土なり。よろずのたのしみつねにして、くるしみまじわらざるなり。このくにをば安養といえり。(「唯信鈔文意」『真宗聖典』五五三ページ) このことは、『浄土論』は次のように示す。 正覚の阿弥陀法王、善く住持したまえり。如来浄華の衆は、正覚の 花より化生す。仏法の味を愛楽し、禅三昧を食とす。永く身心の悩みを離れて、楽を受くること常に間なし。(『真宗聖典』一三六ページ) 初めの主功徳は、私たちが人生において何を主としていくかということでしょう。南無阿弥陀仏は蓮如上人の言葉でいえば「仏法を主とし世間を客人とせよ」と。念仏申すとは、南無阿弥陀仏が主となる。何に帰依して生きるのかということです。そこに自我分別を中心としたあり方が転ずる。次の眷属功徳、それは法・如来に目覚めた仲間、家族です。曇鸞の『淨土論註』でいえば、「同一に念仏して別の道なきがゆえに遠く通ずるに、四海のうちにみな兄弟なり」と。雑業、雑生というバラバラの世界を生きる私たちに、同一の法、南無阿弥陀仏の名号、法の基礎に目覚めた平等の道です。次が受用功徳、「仏法の味を愛楽し、禅三昧を食とす(愛楽仏法味、禅三昧為食)」です。それから無諸難功徳、「永く身心の苦楽を離れ、楽を受くること常に間なし(永離身心悩 受楽常無間)」といわれています。阿弥陀のはたらき、目覚めに仏法が私たちの生活に受用され、是非、善悪に縛られた心が転じて、水のせせらぎにも、米一粒にも真如の光が宿っていることを知る身の安養、心の安楽を得るという心身の安らぎのことです。 浄土に生まれるということは、真如を体とした命を見失い、煩悩にもがき苦しむ身心の煩い、心身の悩みを永く離れて楽を受くるという安養、安楽の世界。そういう意味で私たちの身心が初めて安んじる世界、無碍光如来の名号に呼び覚まされて歩んでいく道です。そういう意味で私たちが仏法の味を愛楽し、禅三昧、仏のさとりを食事とするということは、仏法が私たちの生きていく生活になるということです。さとりを食事とするということです。私たちの生活意識、迷いの意識の全体の中に如来の願い、真如を体とした命に目覚め、立ち生きるということです。 ■涅槃 「涅槃」をば、滅度という、無為という、安楽という、常楽という、 実相という、法身という、法性とう、真如という、一如という、仏性という。仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、形もましまさず。しかれば、心もおよばれず。ことば もたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となずけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす (『真宗聖典』五五四ページ) 如来のはたらきは「一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに」とありますが、この信心も心です。また迷いも心です。サンスクリットでは「チッタ」といいますが、仏教で「心」といえば、知と識、これは分別のことです。一切群生海の心、この心に誓願を信楽するがゆえに、この信楽という場合には仏性です。親鸞聖人のお言葉でいいますと、 かるがゆえに知りぬ。一心、これを「如実修行相応」と名づく。すなわちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。三心すなわち一心なり、一心すなわち金剛真心の義、答え竟りぬ。知るべしと。『止観』の一に云わく、「菩提」は天竺の語、ここには「道」と称す。「質多」は天竺の音なり、この方には「心」と云う。「心」はすなわち慮知なり。これ正業なり、これ正智なり。三心すなわち一心なり、一心すなわち金剛真心の義、答え竟りぬ。知るべしと。『止観』の一に云わく、「菩提」は天竺の語、ここには「道」と称す。「質多」は天竺の音なり、この方には「心」と云う。「心」はすなわち慮知なり。 (『真宗聖典』二四二ページ) 「心」は分別、慮り知るといわれています。私たちの三界内の生活意識です。自我分別を中心としていたあれやこれやの慮知、三界の中の生活です。如来の智慧は三界をこえた心です。勝過三界道の如来の心、真如を体とした命を回向の信心として得るのです。確かに私たちは動物とは違います。人間の特質は分別、意識です。眼、耳、鼻、舌、身、意という六識のはたらきがあります。眼でものを見て、耳で聞き、いろいろな行為をなしていますが、一番もとにあるのは意識でしょう。そして、仏教では意識の深層に「マナ識」「アーラヤ識」と掘り下げています。「アーラヤ識」は生命体そのものです。問題はこの意識の底にひそむ、「我痴、我愛、我慢、我見」という四大煩悩を生み出す「マナ識」です。私たちは、「花は紅、柳は緑」といいまして、純粋な形で私たちの意識はものを見ることはできません。花をひとつ見ても、あの花はきれいだとかこの花は嫌いだとなる。人間関係になればまさに愛憎が違順しあうという中に生きていくのです。真理にくらい、我を愛す、そして我慢です。自分がどこで評価されるか。そしてすべての見解が我見です。宗祖の自力心の了解はここですね。『一念多念文意』でいわれていますが、「自力というはわが身をたのむ、わが心をたのむ、わがさまざまの善根をたのむ。」全部「わが」というところで押さえ、自力心といわれています。よいことをしたなら自分はよいことをしたと慢に落ちる。そういう深い無明の我執です。日々が深く重い我執にとらわれた心を生きています。親鸞聖人の言葉でいえば罪障の身です。唯識のように転識得智といって、自分で修行して磨いて智慧の世界へいくというのではなくて、法然上人、親鸞聖人、そして曇鸞、天親が歩まれたように、この罪障の身、重くして昏く、覗いても底が見えないわれわれの我執の昏さを無碍光如来のはたらき、光明、名号のはたらきは摂取して捨てずと如来の願い、修行は闇のところにはたらいているのです。 ■迷いにはたらく如来の願心 帰命尽十方無碍光如来、あるいは南無阿弥陀仏と念ずるということは、私自身が真に立つところを見出すということでしょう。念仏は、本願によっておこってくるのです。ですから、親鸞聖人の言葉でいいますと、人間の誕生の問題は、善導の言葉を借りて言われていますのが『教行信証』の「行巻」です。 良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。かるがゆえに宗師は、「光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむ」(礼讃)と言えり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)と云えり。また「真宗遇いがたし」(散善義)と云えるをや、知るべし、と。 (『真宗聖典』一九〇ページ) 名号と光明の父母として示されています。信心の業識を得れば、無上涅槃、すなわち報土の真身を得証すと。これが親鸞の教えでは先輩方が様々な解釈をしているところです。信心すなわち業識では了解しにくいです。信心は智慧の目覚めです。真如を体とした如来の本願力の目覚めです。業識は昏い、重い私たちの迷いの意識です。信心を得たからといって問題が無くなるという話ではないですね。どこまでも私たちは重い迷いの業を生きているのですから。尽十方無碍光如来に帰命せよという一念に目覚めるとき、迷いは深い、重い身のところにいつも如来の光明、願いはある。心の暗さを知らさせていただき、そこを超える力をいただくのです。迷いをなくしてという話ではないのです。どれだけ迷ってもそこに如来の願心がはたらいている。『嘆仏偈』に、「たとい、身をもろもろの苦毒の中に止るとも、我が行、精進にして忍びて終に悔いじ」とあります。如来が法蔵となった願心の修行でしょう。私たちの苦しみと毒がなくなるのではないでしょう。人間の深い我執を生きる限りは、傷つけあい害しあう、そういう愚かさを抱えているのである。迷う業識は底はないが、そこに法蔵の願心は、はたらく。『如来会』では、「たとい無闇の諸の地獄に沈むとも……願心は終に退せざらん」と無碍光如来の名号は無間地獄にも到り届いているのです。ですから光明名号に呼び覚まされていく道は、迷いと昏い業は尽きないが、いつでもその迷いを超え進んでいく道です。 (※この講演録は加筆・訂正したものです) |
| 神戸和麿(かんべかずまろ) 1939年名古屋市生まれ。1962年、同朋大学文学部仏教学科卒業。1967年、大谷大学大学院博士課程満期退学。大谷大学教授を経て、現在、大谷大学名誉教授、同朋大学特別任用教授、博士(文学)、西照寺住職。著書『清沢満之 その思想の軌跡』『清沢満之の生と死』(以上法藏館)、『浄土論註・観経疏(大乗仏典5)』(中央公論新社) |
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