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| 教化センター主幹事務取扱が書く文を掲載します。 |
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| 「頭をさげる」 「頭がさがる」 |
最近、法話の後に拍手が沸き起こる場面に遭遇するようになった。かつては、「この人、法話聞いてるの?」と疑いたくなるほど、法話の間にも法話の後にも、合掌したご門徒によって「なんまんだぶつ」の大合唱が聞かれたものである。若かりし頃は、うさんくさくも感じ、反発していた自分が思い返されるのだが、今になってみれば大事なことをお伝えくださっていたのだと、先達方に頭がさがる。
正依の経典『大無量寿経』では、多くの「礼拝」が表現されている。
偏袒右肩(へんだんうけん)
法衣右肩を片脱ぎ、相手に敬意を払う。相手に対して胸を開き出遇う
長跪合掌(ちょうきがっしょう)
師より低い姿勢をとり、ひざまずいて敬礼を表す
稽首仏足(けいしゅぶっそく)
ひざまずいて顔面を地に接し、両手の掌を上にして師の足をとり、これに顔面を触れ敬う。自分のところまで歩みを進めていただいたことに謝念を表する相
右繞三【ぞう】(うにょうさんぞう)
仏に向かって合掌敬礼して右にめぐり三周する。行道ともいう。師仏の行業・言葉に強く深く影響感化を受けようとする相
これらの礼拝は、いずれも、師との出遇いを通して、師の中に自分の欠落しているものを見出し、尊敬すべきものを発見した者が、自分を放棄して、師仏との一体化を願う行為であると了解される。師仏と出遇うということは、おのずと礼拝という行為が伴うものなのである。
つまり礼拝とは、本来的には「礼拝しなければならない」(頭をさげる)という規律的な行為ではなく、自然に「礼拝せずにはいられない」(頭がさがる)という現象なのだと思う。
それはあたかも、「穴の中へ入って身を隠したい」「地に頭を付けひれ伏し隠れたい」ほど恥ずかしい我が姿との出遇いを意味する行為なのである。師仏との出遇いとは、何を隠そう最も出遇いたくない私自身の真の姿との出遇いでもあったのである。
人智を超えた師仏の教化の証が宗風となり、実は難解な教学を知ろうはずもない先達の中に、聖人のお心が脈々と受け継がれてきていたのである。今、あらためて「長跪合掌」し、真宗仏事に自己をたずねる必要があるのではないかと思う今日この頃である。 |
| (2008年9月25日・教化センター主幹事務取扱 荒山 淳) |
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| 不安に立つ |
新宿、1日数万人があの駅を利用する。大勢の人と顔を合わせながら誰にも心をさらけだすことなく、自分の本当の苦しみ、悲しみを語ることはない。数万人の中にたった一人でいる自分。孤独と不安のはざまに身を置く。そんな巷の<ボーズバー>に「いやな部長がいるんです。なんとかなりませんかね」と愚痴を吐きに来る人がいる。しばらくして「いやな部下がいるんです。なんとかなりませんかね」と、今度は、その部長さんがやってくる。皆、自分を変えたい、他者を変えたいと考え、変えれば状況も変わり幸せがやってくると思い込んでいる。雲霧が晴れるように、辛い状況から脱却し、快適になることが宗教だと世間では考えているようだが、周りの状況が変わったぐらいで人間は本当に救われていくのだろうかと、東京VOWZ(坊主)BAR店主・田口弘氏から名古屋教区運動方針「不安に立つ」についての受け止めを聞かせていただいた。
そのことを教主世尊は、『大無量寿経』三毒段に
田有れば田を憂う。
宅有れば宅を憂う。 『大無量寿経』(『真宗聖典』58ページ)
と示され、田畑も屋宅も、あればあったで憂う、無ければないで悩む。有っても憂い、無くても憂うならば、境遇が有るから無いに変わっても、無いが有るに変わっても憂えるという主体に変わりはない。主体が境遇に振り回されて主体自身を見失っている姿を経典に言い当てられているのであろう。上司に困らされているとか、部下に困らされているとか、困らすものの原因を他者のみに振り向けるのが我々である。自己を困らせていると思っている他者だけが問題なのではない。実は内にある自己の考えそれ自体が見失われている。
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし
『正像末和讃』(『真宗聖典』503ページ)
智慧の念仏うることは、得たと同時に得た人の信心の智慧となる。その得たことが成就するならば仏恩報ずる身となり、人生がおのずから成就してくる。もし智慧の念仏が得られなかったら涅槃が得られない。
得られなければ人生が空しく流転していく。顛倒の妄見を固執して、困らせてもいない上司や部下を憂悩することを実体化して、本来自分を困らせている?倒の妄見を見過ごして人生を終わる。なんと悲惨なことではないか。 |
| (2008年6月25日・教化センター主幹事務取扱 荒山 淳) |
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| こころの距離 |
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「憲法改定・教育基本法改定が声高に叫ばれている時代のなかで、真宗大谷派は、親鸞聖人晩年の『世の中安穏なれ、仏法ひろまれ』というおことばをどのように、発信しておられるのか」。昨年、ある組の責任役員総代研修会にうかがったとき、ご門徒の衷心から、ほとばしるようなことばを聞いた。
その問いに対して、「大谷派教団から『不戦決議』が一九九五年六月に表明されていますし、当教区においては『平和展』を通じて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説く仏法を弘めることを課題にし、活動しております」と正義をもって主張したのだった。
いつの世、いかなる人であれ、人間として平和を願わぬ人はいない。にもかかわらず、この地球上に真の平和を実現した国がどこにあろうか。たとえ直接戦火に曝されなくとも、たえずその不安に怯え、安穏な暮らしの中で生きられる世界をもったことがない。我が足下に、争う出来事が起こったとき、仏法を聞き求める足が、そこにありや、いなやということが、今この私たちに問われている。
この争いは、私に関係なく仕掛けられた争いなのか。それならば何故私に仕掛けられたのか。それとも、自分の思いもよらぬ宿業に導かれて、相手の標的にされ、あるいは標的を作り出しているのか。仏法を聞くことによってのみ、自分の位置を確実に知ることができるのだと思う。
親鸞聖人が父母のように慕われた和国の教主・聖徳皇(しょうとくおう=聖徳太子)は、
一つに曰(いわ)く、和(やわ)らかなるをもって貴しとし、忤(さか)うること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り。また達(さと)る者(ひと)少なし。〈後略〉
(十七条憲法第一条)
争いの原因を、自分勝手に分析せず、それを本願に聞いていく。聞法によってのみ、争いの根源的原因を知らされ、争いという事実の中にあっても自分の位相を知らされてくるのである。自分の立てた見込みや固執を打ち破ってくるのが本願であり、ただ無心に本願へ聞く「虚無(こむ)の身、無極(むごく)の体」、その態度を柔和(にゅうわ)というのであろう。
自分と同じ思想、同じ意見の者だけを集めて、ことを成し遂げようとするのを、徒党を組むという。組まれた徒党は、すこぶる狭小で、自分の都合のいいことだけを、大勢集まって叫んでいるだけでは、何も生み出されないのである。
つまり私たちは「本願に自己を聞く」といいながら、知らないうちに自己の内に党(たむら)をつくり、正義を主張するだけに終わっているのではなかろうか。主張している自己はどうであるかを問う。そのことが始らない限り、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と感応道交(かんのうどうこう)したご門徒の求道心に到達するどころか、こころの距離はますます遠ざかるのである。 |
| (2008年3月25日・教化センター主幹事務取扱 荒山 淳) |
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| 現代評論事情 −評論家になっていませんか− |
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今、日本は、毎年3万人を越える自殺者を数え、その数はアメリカに匹敵し、驚異的経済発展を遂げている隣国中国では、自殺者が30万人に迫っていると言われている。このことは、社会に巣くう闇と病根の深さを如実に示しているのだろう。
私たちは、これらの情報をマスメディアを通じて知るわけだが、「3万人の自殺者が、1年間に出ている」という報道はあっても、その人、一人(いちにん)が何に絶望して死んでいくのかまでは伝わってこない。しかし、3万人の自殺者には3万通りの経緯があるはずである。そうであるにも関わらず、マスコミの言葉に引きずられ、社会が悪い。学校が悪い。親が悪い。などと、“評論家”になりきり批評している私がいる。そして、聖教に背を向け、人間を見ていない私がいる。
極重(ごくじゅう)の悪人は、ただ仏を称すべし
本願に触れた源信僧都(げんしんそうず)は、自分の想いのうちに閉塞し、周りに嫌悪されているにも拘らず、自分では敬愛されていると思い込み得意になっている自分自身の姿を「極重悪人」であると自覚された。そして、その閉塞している「極重悪人」としての自分を開放する唯一の方法を「他の方便(ほうべん)なし。ただ、弥陀(みだ)を称(しょう)」するのみと仰せられた。
弥陀を称するとは、ただ「南無阿弥陀佛」と称えること。しかしそのことは同時に、本願(ほんがん)の名号(みょうごう)としての仏の呼び声を「本来の自己へ帰れ」と、自己自身への呼びかけとして聞くことでもあったのである。
私たちは、常に本来の自己を見失ったままで他者と関わり、他者を欺いている。自己自身が分かっていないまま語る評論は、他者にも伝わらないし、自分で自分を欺いていることにもなる。他者を欺き、自分を欺いて、悉く関係が成り立っていないのが私たちの真の姿であり、そしてそのことこそが、自殺が蔓延する世の中を作り出しているのではないだろうか。
閉塞している自分自身、そして、「極重悪人」として、自己と他者を欺き続けている自分自身を自覚すること。実はそのことからしか、自らを閉塞の闇の中から開放し、真の他者との関係を築くことは始まらないのではないだろうか。自己を欺き評論家を楽しむ自己自身のあり方が、実は多くの人を自殺に追いやっていたのである。 |
| (2007年12月25日・教化センター主幹事務取扱 荒山 淳) |
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| 対話をうみだす仏事 |
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真宗門徒講座・第16回「枕直し・納棺・通夜」のテーマで講義を勤めた。縁の深い方の死を受け止めきれず、その死を拒否し動乱する中、荘厳の準備や心構え、死の受け止めを話終えて、法友に今日の話はどうだったか尋ねてみた。
「いろいろと、話を聞かせてもらったけれど、以前は難しい10の話の中でも、2の感動があった。しかし最近は、わかるように話をしていただくんだけれど、感動がない。それは、一つのことを掘り下げるのでなく参加者とスタッフの間で閉塞しているのでないか」という返事が返ってきた。
講師が講義をして、研修会が成功したというものではない。参加者一人ひとりの中にある、「枕直し・納棺・通夜」を経験して、いま尚、記憶として残っている「枕直し・納棺・通夜」の思いを尋ね直すことによって、本当の「枕直し・納棺・通夜」を点検することとなる。枕直しでも人の数だけある。また、納棺についても人の数だけある。その事実を一人ひとりについて聞いていく。通夜ということでも、一人ひとりに聞いていくことによって、今日いろいろな通夜の在りようを知ることができるであろう。通夜という儀式を、通夜という用語の意味を尋ねることによって、一夜を通して、亡き人を偲び語り合うことだと決めてみても、一人ひとりに聞いていくことによって一つに決まらんということが明らかになるに違いない。
『阿弥陀経』の極楽世界の意義を語り明かすところに
そのときに佛、長老舎利弗に告げたまわく、「これより西方十万億の佛土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という。」
驚くべきことに、釈尊は一生涯の中で、出会う人の数を十万億人という数字を挙げておられると同時に、出会った十万億の人を十万億の佛として、尊崇しておられる。尊重し敬愛しておられるから、十万億人という数を挙げることが出来るのである。
私たちは、一日の内に出会った人の数を尋ねられても、答えることはできない。それは何故か。出会った人全てを、無知なる人として軽視し、尊重していないから数の中にも入らないのであろう。
真宗門徒講座に於いて一つのテーマを設定して行う場合、講義する側の狭い見解のみを披閲して終わることなく、参加者一人ひとりを尊崇して、その一人(いちにん)の、否一人だけの貴重な問題意識を聞き開いていくことを大切にしていこうと思うことである。
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| (2007年9月25日・教化センター主幹事務取扱 荒山 淳) |