大谷派の近現代史
毎年お彼岸(3月)に開催する「平和展」に向けての学習会から……

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「宗報(しゅうほう)」等機関誌復刻版
 明治期より昭和期における戦前の真宗大谷派の近代教団史を鑑みるに、当時発行された機関誌たる『配紙』、『宗報』等の一次的基礎資料にあたることは、教団近代史を知る上での第一歩に違いない。ただし、原典となる当時の機関誌全誌に直接目を通すことはなかなかできない現状が以前よりあった。
 しかし、そのような状況のなか、全誌のうち1872(明治5)年から1925(大正14)年にかけて発行された『宗報』等(『配紙』『本山報告』『本山事務報告』『常葉』『宗報』などと改名され、一時期『開導新聞』も発行された)の機関誌が、全25巻及び別巻1巻(『宗門近代史の検証』)として真宗大谷派宗務所出版部より復刻発行されており、同書は名古屋教区教化センターにて閲覧、貸し出しが可能となっている。
※『「宗報」等機関誌復刻版』全25巻及び別巻は1989(平成元)年4月6日より2003(平成15)年1月20日にかけて順次刊行された。
【「宗報」等機関誌復刻版内容一覧】
◆1、2巻 『配紙』(1)(2) 明治5(1972)年2月〜明治18(1885)年6月
◆3、4巻 『本山報告』(1)(2) 明治18(1885)年7月〜明治26(1893)年8月
◆5巻 『本山事務報告』 明治26(1893)年9月〜明治30(1897)年9月
◆6〜8巻 『常葉』(1)〜(3) 明治30(1897)年10月〜明治31(1898)年9月
◆9〜21巻 『宗報』(1)〜(13) 明治31(1898)年10月〜大正14(1925)年4月
◆22〜25巻 『開導新聞』(1)〜(4) 明治13(1880)年7月〜明治16(1883)年4月
 ちなみに一例として取り上げるに、1919(大正8)年3月1日、朝鮮で起こった日本による植民地統治に反対し独立回復を求める「3・1独立運動」に関して、当時の宗派がとった態度は、『宗報』10、11巻より同年3月号より翌年2月号までの一年間にあたるところによれば、「朝鮮」関係の記載件数は任免辞令などを除けば、およそ13件を数える。
 そのうち最も重要となるのは、1919(大正8)年9月号に掲載された同月1日付の「朝鮮ノ禍源ヲ杜絶シ治安ヲ確保シテ」に始まる御垂示(法主の教示)と、朝鮮に特派を遣わし趣意演達(同10月、12月号に掲載)を行ったことであろう。それは「真俗二諦(しんぞくにたい)」に基づき、他国を侵略し、その独立を奪い他民族を同化、隷属させ植民地支配した日本天皇制国家に意識的、積極的に協力加担する教団の姿である。
 なお、別巻『宗門近代史の検証』には「開教 ―国威拡張に対応した海外開教事業―」(木場明志)との朝鮮を含む海外開教に関する論文も載っている。
 その他にも同書には以下の論文、論考もあり、あわせての参照を勧める。
「近代大谷派の歴程」(柏原祐泉)
「人権の抑圧と近代大谷派教団」(泉恵機)
「近代大谷派の教化思想」(池田勇諦)
「国家神道  ―家と宗教」(児玉暁洋)
「社会 <真宗>における「社会」  ―その問題への一つの視座」(西田真囚)
「政治 護法・護国と戦争  ―「政治」との関わりに代えて」(大桑斉)
「教学  教学的視座からの一考察」(本多弘之)
「宗門行政  ―大谷派近代の宗門行政」(名畑崇)
(2008年9月25日・平和展スタッフ  金 国雄)


二つの「真宗の要義」

 1931(昭和6)年9月18日の「満州事変」勃発以後、真宗大谷派は戦争協力活動の一つとして、パンフレットの編集・出版・配布を行っている。それらは大谷出版協会や宗務所社会課から発行されていた。大谷出版協会は、1937(昭和12)年7月に本山内に設置されたものであり、月刊雑誌『本願』など、主に門徒向けのものを発行していた。
 それらの中に同名のパンフレットが発行されていたことが判明した。そのタイトルは『真宗の要義』である。最初の発行は1940(昭和15)年8月10日、東本願寺パンフレット第32輯として発行された。そしてもう一つは、1944(昭和19)年10月30日。どちらも大谷出版協会の発行である。つまり、これらの史料は戦争中期の「真宗の要義」と戦争末期の「真宗の要義」の変化を見て取れる史料となる。本稿でその対比を試みたい。
1940年(戦争中期)発行 1944年(戦争末期)発行
 先に出版されたものの著者は、稲葉円成である。その内容は、『歎異抄』『教行信証』などを中心として展開されているものである。一言で言えば「時局観」のまったく存在しない文章であった。「戦時」または「大日本帝国」・「天皇」を意識した内容ではなかったのである。では後のものはどうか。
 著者は、真宗同学会に付設された「宗義研究会」が委嘱されまとめたものである。真宗同学会は、1941(昭和16)年11月4日に創立総会が開催され設立された。『真宗』1941(昭和16)年12月号の記事は「皇国仏教の本質を究明せん」という見出しで掲載され、その宣言では、「興亜日本文化の真義を顕彰し、皇国仏教の本質を究明するとともに、時代に即応して挺身戮力、以て一宗教学の原動力となり、同信報国の誠を致さんことを期す」(カタカナをひらがなとし、句点を補った)と訴えていた。
 目次は「序言・聖教・宗体・念仏・浄土・回向・信楽・随順・教化・真仏・現益・報恩・奉公」となっている。「序言」の書き出しは、「おもふに、わが肇国の精神には、本来、世界的意義を内有してゐる。即ち、わが日本国家は八紘為宇の皇謨により、万邦をして各々其の処を得しむるのであつて、民主的国家などとその体を同じうするものではない。そこに日本世界観の樹立せらるべき所以がある」となっている。天皇制の礼賛と、その目的である八紘一宇(八方を一国とすること)の推進を主張していることになる。ただ、続く項目は真宗的なものであり、時代性をほとんど感じない。
 ところがこの「真宗の要義」の結論は「奉公」であり、ここに再び戦争の影響と大谷派の教化の目的がはっきりと記されている。そして、「真宗の要義」が改変されている事実を見ることができる。
 「およそ国家の守護なしには、仏法は行われるものではない。仏教が日本に於いて、特に真実の旨趣を顕彰することを得たのは、畏くも国体相応の教法として 皇室の護持し給へる恩徳によるものである。されば、念仏者は深く 皇恩を戴き、国体相応の所以をかへりみ、報恩の至誠以つて皇運を扶翼し奉るとともに、進んでは、わが肇国の精神の世界的徹底を念願しなければならぬ」

 注・史料の旧漢字は現行の漢字にあらためた
(2008年6月25日・研究員 大東 仁)


紀元二六〇〇年

 伝説上の初代天皇、神武天皇が即位してから二六〇〇年に当たるとされたのが、一九四〇(昭和十五)年二月十一日(紀元節)であった。「天皇は神聖にして侵すべからず」という時代。この年は、全国的に祝賀の式典などが盛んに開催され、まさに国家神道一色の年となった。
 この祝賀に真宗大谷派は積極的に関わっていった。一九四〇(昭和十五)年二月十五日、「法主(ほっす)」大谷光暢は、「歴朝の仏恩を仰ぎ、朝家の御為、国民の為、力を致すことが仏所遊履国豊民安の真教を恪守するものといえる」という教書を出し、四月二十三日、全宗務役員が橿原神宮参拝(祭神・神武天皇)。五月十日、東本願寺「紀元二六〇〇年奉讃法要」。六月四日、「法主」・裏方(うらかた)、橿原神宮参拝など、大谷派としての慶祝行事を続けていた。いずれもたいへん神道色の強いものであった。名古屋別院も十月十日に「紀元二六〇〇年奉讃法要」を執行している。
 同時にこの年は日中戦争継続中であり、「戦没者院号法名」下付についての、軍隊階級による差別がなくなり(従来は将校のみ院号法名。下士官・兵士は法名のみ)、戦死者の院号法名下付が拡大したこと。阿弥陀堂南隅に「表忠殿(戦死者納骨堂)」の建設計画がおこったこと。「裏方」大谷智子の『光華抄』(戦場慰問の記事など)の発行。中国南京に「金陵女子技芸学院」開校など、直接「紀元二六〇〇年」に関係しているとはいえないが、戦争協力でも新しい事業が推進されていたという年でもあった。
 また、この年、一九三七(昭和十二)年九月十五日・十月十日の二度にわたる反戦言動で、禁固四ヶ月・執行猶予三年の判決を受けていた真宗大谷派僧侶・竹中彰元(たけなかしょうげん)の刑が減免されている。竹中は禁固二ヶ月二十日・執行猶予三年となった。同年二月十一日「紀元節」の日、天皇の大権による恩赦によるものである。
 これを受け、大谷派も五月十日に宗憲違反者の減免を行った。竹中の軽停班三年の罪は、本来ならば一九四一(昭和十六)年十一月十八日満期であるものを、一九四〇(昭和十五)年五月十八日に満期とした。ただし、同時に「免役務」とされた布教使資格については、一九四一(昭和十六)年四月十七日に、再度布教使に任命されることで、復権している。国家と大谷派により弾圧されていた竹中は、その国家の祝い事により復権されるという皮肉な状態になっていた。
 しかし、すべてが天皇制と戦争に取り込まれている年にも、真宗の抵抗の事実は残されている。それは門徒による神棚設置拒否である。これら門徒は、新宮市の浄泉寺門徒、かつて、政府によりでっち上げられた大逆事件逮捕者、真宗大谷派僧侶・高木顕明(たかぎけんみょう)が住職を勤めていた寺に所属していた。「逆徒の寺」との汚名を着せられていながらも、少なくともこの年までは、真宗を捨てることなく生活していたことがはっきりとする。
 以上のように、一九四〇(昭和十五)年は、天皇制と戦争が大きく影響を与えた年であった。  
(2008年3月25日・研究員 大東 仁)
紀元2600年記念しおり(真宗大谷派名古屋別院発行)


竹中彰元(たけなかしょうげん)師復権顕彰大会に参加して
「謝罪は未来への希望」を認識から決意へ 
 
  10月19日、岐阜県不破郡垂井町の明泉寺(竹中真昭住職)を会場に「竹中彰元師 復権顕彰大会」が真宗大谷派により開催された。冷たい雨が降る中、大勢の人がこの法要に詰め掛けた。少し早めに到着した私たち名古屋平和展スタッフは全員、本堂に入ることが出来たが、この復権に際し、署名活動を行った「岐阜宗教者平和の会」会員の方々を外のテントに追いやる形になってしまい申し訳なさを感じた。
  
 「私ね、ここのおじいさん(彰元師)に、よう可愛がってもらったんだわ。小学校の6年生のときだわ。大変なことがお寺にあったって、後になって知ったけど、そんときは大人がざわざわしとるな、と思ったぐらいで、なんも知らんかったわ」「“どいっこく”なおじいさんでね、ほんでも、優しかったよ。私ここから市内に嫁いだけど、今日みんなが同窓会みたいに集まれたのは、おじいさんのお陰だわ。おじいさんが遇(あ)わせてくれたんだわ。嬉しいわ」遠方から集まったご門徒たちが、「こっち、こっち、ひさしぶりだね」と堂内に懐かしさの声を響き渡らせる。皆、彰元師を役職で呼ばず、「おじいさん」と語る。彼はお坊様ではなく門徒さんたちと同じ立場で生きた“明泉寺のおじいさん”だったのだろう。だから、彰元師が「此の度の事変に就いて他人は如何に考えるか知らぬが自分は侵略の様に考える。徒らに彼我の生命を奪い莫大な予算を使い人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない、戦争は最大な罪悪だ」と二度にわたる反戦言動を起こし、警察に逮捕された際に門徒がたは彼の身を案じ「嘆願書」を作成したのであろう。「非違なきに非違ありとせんとするが如き輩もあるが為に老師の晩年を傷つくる如きは仏も菩薩も許し玉はざる」とある嘆願書の言葉から、彰元師がご門徒たちと仏の教えを真摯に学び続けた姿勢が読み取れる。しかし、彰元師に有罪判決がくだされると大谷派は彰元師に対し「軽停班」3年と布教使資格剥奪の処分を下した。
 その時から69年、やっと大谷派は彰元師に対し、復権・顕彰をするにいたった。そして、法要直後、熊谷宗恵宗務総長が頭を下げた。「まずもって、明泉寺、そしてご門徒がたに謝罪を申しあげます」
 1995年6月15日、大谷派宗議会は不戦決議を表明している。「かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさへ見捨てられた人に対し、心から許しを乞う」と記されてあるのだから、謝罪は当たり前かもしれない。「学ぶとは、懺悔(さんげ)です。復権・顕彰をはかるとは懺悔(さんげ)のあかしでなくてはならない」。大会の趣旨文にはこう書かれている。学び続けると、事の愚かさが見えてくるのは否めない事実だ。だが、非を認めることは簡単なことではなく、人前で頭を下げることは困難で苦痛を伴う。しかし、それがこの場では当たり前のことのように行われた。
 その光景から、謝罪は希望であることを認識した。謝罪は「ジ・エンド」ではなく「スタート」なのだ。だからこそ、私たちはこの法要を打ち上げ花火にしてはならない。彰元師をとおしての学びはここからが、始まりだ。
 「お偉いさんが謝っておられるわ。ありがたいね」門徒さんが手を合わせた。謝罪とは未来への希望である。400人以上の参詣者の前で深々と頭を下げた総長の姿にはその決意を感じさせるものがあった。
(2007年9月25日・平和展スタッフ 祖父江佳乃)



今回の大会を記念して、明泉寺門前に碑がつくられた。
竹中彰元師略年表
1937(昭和12)年
9月15日
村人に対し反戦言動をする
1937(昭和12)年
10月10日
近在の僧侶に対し反戦言動をする
1937(昭和12)年
10月26日
反戦言動で逮捕
1938(昭和13)年
4月27日
名古屋控訴院(現在の高等裁判所)で禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける
1938(昭和13)年
11月18日
大谷派より軽停班3年の処分。布教使資格剥奪
 

 
県下唯一の常設戦争(平和)資料館
「戦争と平和の資料館 ピースあいち」訪問

***

 資料館前の庭には、“平和地蔵”が安置されている。これは名古屋市中区千代田に、空襲犠牲者の追悼と平和祈念のために建立されたものであったが、諸事情により移転を繰り返していた。しかし、資料館の完成により安住の地を得たものである。戦争の事実を知ること・平和を願うこと。お地蔵様は、この資料館建設の目的を体現しているのである。

 内部の展示構成は「第一展示 愛知県下の空襲」「第二展示 戦争の全体像 15年戦争」「第三展示 戦時下の暮らし」「第四展示 現代の戦争と平和」となっている。
 「愛知県下の空襲」では、焼夷弾などの現物資料・空襲の写真パネルに加えて、愛知県が激しく空襲された理由が解説され、空襲そのものの非人間性だけでなく、空襲を受けた愛知の状況自体の非人間性をも明らかにしているといえるだろう。
 「戦争の全体像 15年戦争」では、「満州事変」に関する展示が弱いと感じたが、その分日中戦争に大きなスペースが取ってある。巨大な写真パネルには「日本軍兵士の死」「中国民衆の死」が並列して展示してあり、15年戦争の被害と加害を象徴したものになっている。「強制連行」「南京大虐殺」「慰安婦」なども個別のパネルで解説してあり、その解説文が的確でわかりやすいものとなっていることからも、戦争を一方的な価値観から見るのではなく、戦争の本質を「生命の破壊」としてとらえていることがきちんと伝えられている。
 「戦時下のくらし」では、当時の「茶の間」が再現されるなど、現物資料が多数展示されることによって、具体的に当時の様子が理解できるようになっている。

 以上は二階部分の展示であるが、一階に移って「現代の戦争と平和」コーナーがあり、第二次世界大戦後に起こった戦争が展示され、直接現在の平和を考える材料を展示するコーナーとなっていた。また一階スペースは「交流スペース」としても活用されており、取材日には「いのちの大切さを考える講演会」が開催されており、五十名ほどの聴衆で満ち溢れていた。子ども会等で予約すれば日曜日も臨時開館を配慮していただけるとのことであった。
 こじんまりとした資料館ではあるが、構成の知的技術の確かさに驚かされるものとなっている。これこそが、関係者の熱意の発露であると考えている。

(2007年9月25日・研究員 大東 仁)

「戦争と平和の資料館 ピースあいち」

ところ

名古屋市名東区よもぎ台2-820

開館

火曜日〜土曜日(祝日の場合も開館)
 午前11時〜午後4時
(時間外の来館については要相談)

閲覧料

大人300円 小中学生100円

連絡先

052−602−4222(でんわ、ファクス)




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