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教化センター主催「第25回平和展で取り上げた『中外日報』の記事について」

 この春(2014年3月)に行われた第25回平和展「仏の名のもとにヤスクニへ」(教化センター主催)において、現代社会が抱える問題として憲法改正や集団的自衛権行使の問題を提起しました。
 その際に『中外日報』(2013年10月31日付)に掲載された時流ワイド「中外コメンテーターに聞く」を取り上げました。この特集は、宗教家(中外コメンテーター)に憲法改正や集団的自衛権に対する認識を尋ねる内容でした。この記事中、同朋大学大学院の田代俊孝教授の回答が、あたかも改憲や集団的自衛権の行使を容認する立場かのように誤解されかねない編集内容となっていました。田代教授に改めて念仏者の視点から論じていただきました。

「戦争をできる国に戻してはいけない ―念仏者として― 同朋大学大学院教授 田代 俊孝 氏



 現安倍内閣では、「憲法改正は私の歴史的使命」と公言し、憲法第9条、それに改憲発議要件を規定した96条の改正を表明している。また、昨今では集団的自衛権を解釈論で認めようとして、与党内調整をしている事は、連日の報道の通りである。世界に誇る戦争放棄の平和憲法が骨抜きにされていくことは見るに忍びない。それについて、当センターが毎年、『平和展』を開催し、仏教の立場から平和への意識啓発に力を注いでいることは大変意義深く、大切なことである。
 ところで、昨年の平和展で『中外日報』昨年10月31日付の紙面に掲載された「高まる改憲論議―戦争をできる国に戻ってはいけない―」の記事が紹介されていた。その中に筆者に関する事柄も書かれていたが、そこでは筆者の考えが十分に表現されていなかったので改めて述べてみたい。
 『中外日報』が識者をモニターに指名してアンケートを行い、その結果を記事にしている事は、興味深い試みであった。このアンケートには、設問①に「憲法改正に関する是非」、設問②に「改正について定めた96条改正に関する是非」、設問③に「自衛権についてどうお考えですか」など7つの3択〜5択の設問があった。そして、その回答をまとめたものが上記見出しの記事になっていた。
 問題の箇所は、アンケートの設問③の自衛権について、その記事の中で、筆者が改正反対であるとの立場を示さず、「一方、集団的自衛権の明記が必要だとする8人(回答者)は「他国との協調を図るため」(田代俊孝・同朋大学大学院教授)・・・などと、現実の国際状況を考慮した場合にはやむをえない、との立場である。」とあり、筆者がそれを認めているかのような記述になっている所である。
 この設問の前に設問①では、「憲法改正に関する是非」、設問②「改正について定めた96条改正に関する是非」を問い、筆者はいずれも「反対」と答えている。そのことを記事には書かないで、設問③のみを取り上げて記事にしているのである。筆者は憲法9条、96条についても改正に反対の立場に立って、その上で設問③「自衛権についてどうお考えですか」の問いに「・・その旨を憲法に明記すべきである」と答えているのである。その意図は、解釈論によって、なし崩し的に自衛権、集団的自衛権を認める事は反対であるとの立場である。昨今、安倍内閣が集団的自衛権を解釈論で認めようとしていることに対して反対しているのである。仮に、集団的自衛権を主張するなら明文化し、現憲法の規定によって民意を問うべきであるとの立場である。
 筆者は、一貫して、憲法9条、96条についても改正に反対している。そして、集団的自衛権についても、解釈論によって、なし崩し的に認める事に反対との立場である。微力ながら地元の市民組織の「9条を守る会」にも参加させていただいているし、日本ぺンクラブのこの問題に対する主張にも会員として同意している。安倍内閣が集団的自衛権を解釈論で認めようとしていることに対しても、これらの活動の中で明確に反対しているのである。集団的自衛権までも解釈論で認めようとすることに無理があることは、国会内で「憲法の番人」だった元内閣法制局長官の阪田雅裕氏でさえ指摘している。ましてや、閣議決定で押し通すと言うことは、もちろん、それが立憲政治の根底を揺るがす事であることはいうまでもない。安倍首相は国会の衆院予算委員会で「(解釈改憲の)最高責任者は私だ」と言い放ち、また「閣議決定で(解釈改憲を)初めて確定する」(衆院予算委)とまで明言した。近隣諸国と共生し、回答のコメントに記したように「他国と協調して」お互いに認め合って生きていかねばならない。それには戦争を放棄する以外にないことはいうまでもない。
 そもそも、自他の命を奪う事が仏法の教えに照らして許されるはずはない。まさしく仏陀の「国豊かに民安し。兵戈用いることなし」(『仏説無量寿経』)という教えの通りである。自己の欲望のために他の命を犠牲にしてはならないことは、筆者がライフワークにしている生命倫理でも同じである。かけがえのない〝いのち〟を戦場に送ってはならない。
 かつて、近隣諸国を侵略し、多くの命を奪った戦争の責任は、戦後に生を受けた筆者たちにおいてもそれを共業、つまり共に背負っていかねばならない業として受け止めねばならない。しかし、現実には自我が強く自己を正当化し、なかなか気づけない。気づけるのは法との出遇いを果たした者のみであり、その法のはたらきによってのみ自覚させられるものである。
 中国の善導(613〜681)のことばで、親鸞の救済の論理の中核をなすものに二種深信という概念がある。二種深信とは、「機の深信」と「法の深信」のことであり、機の深信とは、「「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。」との文で示され、私たちの罪悪がいかに深いかという自身における罪の自覚である。「法の深信」とは、「「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。」と示され、自己を照らす本願のはたらき(光)の自覚である。しかし、そこでいう「自身」とは、万人に共通する自身である。『歎異抄』の「親鸞一人がため」という意味が「親鸞ひとりだけ」という意味でなく、全人類を負荷する主体的な立場での「一人」であることはいうまでもない。一般的に二種深信は、「わが身」の上における問題として受け止められているが、「われら」としても受け止めることもできる。共同で犯した罪、つまり、社会的罪悪を「われら」の共業として自覚(深信)したときに、「われら」が共に本願に救われていく道が開けてくるのである。この「われら」とは同時代に同じ課題を共有する「われら」でもあり、時間を越えて過去の人との課題を共有する「われら」でもある。侵略戦争を引き起こした過去の人の罪業も、「われら」の罪業として引き受けていかねばならない。過去の反省とその自覚に立ったとき、「われら」は非戦の道を歩むよりほかにない。
 近時、このような立場は「自虐的歴史観」と言われ、過去の罪業から目を逸らそうとする発言があるが、法との出遇いを果たせていない者のことばとして悲しく思われる。照らしてくれるもの(法)に出遇っていないと自分が見えない。迷っている人は、それが迷いであるとは解らない。正信(真理)に出遇わないと迷いは晴れない。迷いの世界に入ってしまうと、まじめな人は、ややもすると戦争にもまじめになってしまうことがある。衆縁によって共生を説く仏教の教えに立てば他者を殺す事が許されるはずはない。目先の利益のために真理が見えなくなっている自己自身を問い直し、戦争の道を開く改憲論議に改めて関心を深く持ちたい。
 なお、筆者は『中外日報』の謝罪を受け容れ、3月27日付の紙面と同社のHPに筆者の見解を改めて掲載している。

 


 「他国防衛権」(自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利)ともいえる集団的自衛権。日本政府は、その権利を保有してはいるが日本国憲法9条によって「行使できない」もしくは「禁じられている」と解釈しています。しかし、安倍首相は国際的な社会状況を理由にして、憲法解釈を変更することで集団的自衛権の行使を可能にしようとしています。  1)
 真宗大谷派は、こうした「戦争する国へと戻るような動き」に危機感を持ってきました。2009年6月9日に宗議会は(参議会は翌10日)「ソマリア沖の海上自衛隊の即時撤退を求め、海賊対処新法案制定に反対する決議」を可決し、自衛隊がソマリア沖の海賊行為から民間を護衛することは、「集団的自衛権行使の事実上の先例」であるとして批判し、反対の姿勢を明確にしました。また、2014年6月10日に宗議会が「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」を可決しました。仮に集団的自衛権を行使したとすれば、「日本人が国外で人命を奪い、奪われるという事態が現実となりかねない」し、「戦後、日本が堅持してきた戦争放棄の国是を捨て去ること」に他ならないと指摘しています。
 第25回平和展「仏の名のもとにヤスクニへ」でも、憲法「改正」や集団的自衛権の動きを問題にしました。その際に取り上げたのが、『中外日報』(2013年10月31日付)に掲載された時流ワイド「中外コメンテーターに聞く」の記事でした。この特集記事で38人の宗教家(中外コメンテーター)が改憲の是非を論じました。今回、玉稿を賜りました田代教授の他には、同朋大学の尾畑文正名誉教授が「不殺生に学ぶ仏教徒であれば、殺生を前提とする戦争に反対するのは当然の態度」と自衛権と自衛隊を違憲であると主張されました。
 こうした動きの中で私自身が考えずにおれないことは、仏教の教えが社会的な状況によって変化するのだろうかという疑問です。仏教は普遍性を持った教えです。普遍性を変えるのは〝人間の都合〟です。田代教授が指摘された、法との出遇いによって「機の深信」が開かれてくることを鑑みると、殺伐とした世の中にこそ、仏教の教えがゆきわたるべきであると、あらためて感じました。(教化センター研究員 新野 和暢)
 
  1)安倍首相は第186回国会期間中(6月22日まで)に閣議決定する意向だったが、今国会中の合意を見送ることになりました。朝日新聞(6月20日付)によると、政府・自民党が集団安全保証(国連軍や国連決議に基づく多国籍軍が制裁すること)について、日本が武力行使をできるようにする方向で調整に入ったと報じている。新聞各紙(6月28日付)によると、集団的自衛権行使を憲法解釈によって容認することを7月1日に閣議決定する見通しと報じている。

『センタージャーナル』89号(PDFファイル)2、3面より転載、一部加筆