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「不安に立つ」講演録


「深く自身を信じて生きん」 本多弘之氏(親鸞仏教センター所長/東京都・本龍寺住職)
 
はじめに
 皆さん、おはようございます。ただ今ご紹介いただきました本多でございます。ここの、名古屋御坊さまには、これで三度目の暁天講座かと記憶しております。二度目の講座が、もう十年以上前かと思いますけれど、久しぶりにお呼びいただきました。たまたま、今年、間が離れてお呼びいただいた因縁は、私自身もどうしてかなぁと思ったのですが、私の京都での師でありました安田理深先生という方が1982年(昭和57年)2月19日にお亡くなりで、今年が33回忌に当たります。33回忌ですから、もう、亡くなられて30年を超えているわけですけれど、その33回忌を、今年は、大谷大学の講堂をお借りしましてお勤めしました。そのことをご依頼いただいた文面で触れ、しかも名古屋教区は「不安に立つ」というテーマを掲げて聞法をしておられると。こういうことがあって、私が、安田先生に縁のある人間で、今年は、33回忌の御縁もある事だから、安田先生にちなんで「不安に立つ」と言うような問題も含めてお話をしてほしいという、そういうようなわけでございました。
 
安田理深先生と「不安に立つ」
 大谷大学での33回忌も、私が弟子を代表して、先生をしのぶお話をさせていただいたことでしたし、安田先生が、晩年に、お亡くなりになるのではないかということが感じられる状況の中で、名古屋の中日新聞に連載が載るということがありました。これは東京では東京新聞、東京にとっては地方紙なのですが、東京では一番大きな地方紙で、東京市民がずいぶんと東京新聞を評価しております。その東京新聞は、実は中日新聞の子会社といいますか、子会社といっても随分大きな息子かもしれませんけれど、とにかく東京新聞には中日新聞とほとんど同じ記事が載るんですね。私も何回かご縁があって、中日新聞に執筆させていただいたときには必ず東京新聞にも載りました。そういうことで、中日新聞に文章を執筆したことがあり、不思議なご縁を感じているのです。
 
安田理深先生と茂田井教享先生との対話の実現
 安田理深先生という方は、大変潔癖な方で、新聞に名前が出るなんていうことをなさることはほとんどなかった。もちろん新聞の側からも先生に文章を頼むなどと言うことはありえない。というのは、先生は本当に純粋に仏法を求められて、親鸞聖人の教えについては、曽我量深先生を師として、徹底的に『教行信証』を読み込まれた方ですから、本当に深く人生の真実を求めてお考えになってお話をなさっておられた。それで、そう簡単にはうなずけない。とてもむずかしい。難解至極のお話をなさる方でしたから、そういう方が、たまたま中日新聞に連載されるというようなことが起こったのはどうしてかといいますと、東京に立正大学という大学があり、日蓮宗が運営しております。その立正大学の、もう亡くなられましたけれど、安田先生とほぼ同世代の茂田井教享(モタイキョウコウ)という先生がおられました。明治30年代生まれの方かと思いますが、東京の日本橋の商店の息子であったにもかかわらず、菩提心をもよおして出家されて道を求められた方です。この茂田井教享という先生が、たまたま日蓮宗で出家して、日蓮宗の学びをしようと思って立正大学に入られた。けれども、その当時の立正大学の日蓮上人の教義学では、先生は勉強する気が出ない。それは私もよくわかります。大体、教義学というものは教えられた祖師の思想をどのように論理化し、どのように体系化して、了解しやすくするかという、そういうふうな発想でまとめられていく。ですから、教義学はある意味でまとまってはいるけれど、それを読ましていただいても、学ばしていただいても、ほとんど、人間にとってそんなものがなぜ必要なのかという一番根本の問題がよくわからない。ただ自分は正しい。自分はこういうふうに考えるから、お前らも聞けという、そういうような感じがするのですね。だから、教義学というものは、いわゆるドグマという言葉がキリスト教の方にはありますけれど、頭からお前らはこれを信じなさい、これは正しいのだという感じで成り立っている。ですから、どの教義学であっても面白くないのです。日蓮教学だけが悪い訳じゃないと思いますが、日蓮教学を茂田井先生は、学ぼうと思ったけれど、祖師日蓮を信じないわけじゃないけれど、教義学をやる気がしない。で、大変困られた。自分は商店の息子なのにそれを棄てて出家して日蓮の教えで仏法を求めようと思ったけれど、やる気がしない、というので苦しまれた。で、たまたま文学がお好きだったので、文学でもやるかというので、立正大学で、文学部文学科を専攻して、文学の方でやろうと思ったらしいのですね。
 
曽我量深先生の「日蓮論」(日蓮の求道の生き方)に共鳴された茂田井先生
 宮沢賢治という方が、この方はたまたま浄土真宗の門徒の方だったけれども、たまたまその当時の近代の社会生活の問題も感じて親鸞の道を棄てて、日蓮上人の教えに帰した方なのですね。読んでみますと、宮沢賢治のモノの中には、人間の生きる悲しさとか、人間の生きていることの罪だとか、そういうことが深く感じられる、素晴らしい文学だと思いますけれども、たまたま残念ながら、その当時の浄土真宗の教えに納得せずに、日蓮上人の方に入ってしまわれた方なんです。この宮沢賢治を中心にして、文学を学ぼうと思われた。その頃に、たまたま、曽我量深先生が『精神界』に書かれた「日蓮論」という日蓮上人を論ずる文章が目に入った。茂田井先生は在家の出身の方ですから、いわゆる宗派意識で勉強しようというのじゃなくて、人間の心に響く、本当の救いを要求して仏法を学ぼうとしておられたから、曽我量深先生が書く「日蓮論」に深く共鳴された。
 曽我先生のお書きになった、20代の曽我量深先生がお書きになった「日蓮論」は、曽我先生が、師である清沢満之と自分との関係を考察されたものかと拝察されます。清沢満之はこの名古屋の出身の方ですね。その清沢満之を師として学びを始めた時に、清沢満之が亡くなってしまった。すれ違いのような形で、曽我先生は清沢満之先生を師として歩み始めたわけですが、その師と弟子との関係ということを「日蓮論」を通して考えようとなさったのではないかと私は感ずるんです。「日蓮論」を論じながら、実は親鸞の思想を、なぜ親鸞に帰するのかということを、明らかにする。その時に、人間が生きることにとって師とは何であるか、師匠とは何であるかということを考えている。そういうテーマがずーっと一貫しているように感じるんですね。この「日蓮論」は大変面白い。われわれが読んでも大変面白い。日蓮上人という方の持つ魅力を上手に語り出しながら、しかし、なぜ日蓮でなくて親鸞なのかということを、最後で自分は親鸞を選ぶということを論じられる。曽我先生は日蓮上人が大好きなんですね。たぶんそれで、日蓮上人の良いところを散々褒めあげる。けれど、最後にどんでん返しというか、自分は親鸞に立つということを、文章を読んで行けばわかる。その「日蓮論」を読まれて、茂田井教亨先生が感動なさって、こういう形で日蓮上人をいただき直してみたいということから、日蓮教学を自分が主体的に勉強する。こういう姿勢を曽我先生からいただかれた。そして、その後ずーっと立正大学の日蓮教学の主任教授になられて、長い間、日蓮教学を引っ張られた方なんですね。
 その方が引退なさった後、立正大学の日蓮教学を引き受けられた、渡辺宝陽先生という方がおられます。この方が、自分は縁がなかったから曽我量深先生にふれたこともないけれども、茂田井先生があれほど強く、曽我量深先生の教えを学ばれていた。茂田井先生は日蓮教学をやりながら、自分の精神的な糧としては曽我量深先生のモノを隅から隅まで繰り返し何回も読んでおられたらしいんですね。もし、それを読んで親鸞に帰依してしまったら、日蓮教学をやる立場はない訳ですね。けれど、自分は人間の真実に立って、日蓮上人のおっしゃる意味を解明したいと言うことで、日蓮教学は捨てずして、しかし、曽我量深先生の人間としての求道の姿勢とか、ものの考え方の根本とかを、何といいますか、悪く言えば吸い取って利用する様な、そう言ったら失礼かと思うんですけれども、そういう姿勢で生きておられた。
 もちろん、曽我先生が亡くなられてからですけれども、そんなにはたっていないころでした。曽我先生は96才まで生きられました。昭和46年に亡くなられましたから、十年もたっていないかもしれませんね。たまたま縁があった日蓮教学の方を通して安田先生に、曽我先生の一番弟子だというのならば、自分と対談して欲しいということを申し込まれた。それで、茂田井先生と安田先生との対談ということが成り立って、その内容が、二人だけの対談で終わらせるには惜しいからというので、間に立った方が中日新聞に相談されて、中日新聞で連載するということになったようです。周りから見ると、安田先生と茂田井先生という、ほとんど因縁がないように見えていたお二人が対談された。その時のテーマの中から「不安に立つ」という言葉を取り出されて、そして、その連載された中日新聞の記事を本にして、「不安に立つ」という一冊の本にして中日新聞から出版されたことがありました。
 
安田理深先生と名古屋教区とを結ぶ「不安に立つ」ということば
 そのテーマを名古屋教区が取り上げられて、親鸞聖人の教えを学んでいくときの大切な課題にしたいという願いを出しておられるということ。私からすると、不思議な因縁としか思えない。あまり深い因縁があるとすぐわかるようなつながりがない安田先生と名古屋教区。まぁ、東本願寺にとって名古屋というのは、名古屋が本願寺のふところを支えていると。名古屋教区からすると名古屋教区の自負心は、東本願寺をわしらが支えているんだというほど力がある。力があるし、そして、聞法の伝統もあるし、何といいますか、浄土真宗の土壌がしみ通っている土地であるということがあるのでしょうけれど、その後の、清沢満之先生を生み出して、清沢先生の、あの求道心、そして、清沢先生の、あの思想と、名古屋教区が持っている質とは、深いところでの何かつながりはあるに違いないんでしょうけれど、私が感じた表のつながりとしては、関係がほとんど感じられない。そういうことがあると思っていたんですけれど、不思議なご縁で、こうして、私が、安田先生の33回忌という機縁に、お呼びいただいたということで、皆様方にお聞きいただけるような内容を、どういうふうにお話したらいいかなぁということを思っております。
 
安田理深先生とのご縁――『安田理深選集』の編纂・刊行を終えて
 
安田先生の魅力――堅いせんべいの味わい
 それで、安田先生を縁にしてお話をさせていただこうと、私が心を決めたのは、その依頼状に安田先生の33回忌があったということと「不安に立つ」というテーマがあるということから、私がこの場に立って何かお話をさせていただく縁があると思いました。安田先生という方については、いろんな面があって、私は、本当に不思議な因縁で京都に行って以来、先生が亡くなるまでの22年間、安田理深先生に懇切な教えをいただいたと思っておりますし、その後、先生がお亡くなりになる直前に、安田理深選集を残しておこうと私が発起しまして、三重県の訓覇信雄さんに相談し、大谷大学の教授をしていた寺川俊昭先生に相談して、そして、皆さんの応援を得て、安田先生の言葉を世に残すという仕事として、「安田理深選集」を編集させていただきました。これは、それまで、安田先生という方は、ほとんどこの世の中で知る人は少ない。弟子になった人、先生に縁のあった人は、先生と深く精神的な内面で信頼しあえて、あぁこういう人が本当に仏法を求めてくださるのだということを、身をもって教えて下さる方として、かけがえのない師をいただいたということはありますけれど、中々その神髄に触れることが難しい方なんですね。ちょっとやそっとじゃ歯が立たない。
 名古屋にもあるんだそうですけれど、堅いせんべいがありますね。私は親戚が大垣にありまして、大垣に法事で行ってもらったせんべい。折りたたんであるんですけど、堅いせんべいで、せんべいだったら噛んだら食べられるかと思ったら、ちょっと噛もうとしたら歯が折れそうな堅いせんべい。このせんべい、どうやって食べるのかと思って、端から少しづつ削り取るような形で食べるか、口の中に入れてとけるまで待っているか。そういうようなせんべい。それを比喩にさせていただくなら、安田先生という方は、噛んだら、本当においしい味がするんだけれども、口に入れて噛もうったって、ちょっとやそっとじゃ歯が折れてしまうくらい堅い。まぁ、そういう方だったんですね。
 ですから、この世の中に読める本といったら、「文明堂」といって、文章が明るいと書く「文明堂」という本屋が京都にあったんですけれど、これは、福井出身のおやじさんが一人でやっている本屋さんで、社長兼小使い兼販売員兼、一人で全部やっている、そういう本屋さんが安田先生に惚れて、安田先生の本を出して、1000部刷ると、本屋さんを、京都の仏書屋を回って、3部ずつくらい置いてもらって、売れると取り替えに行って、自分で売って歩いていた。そして、10年で500冊売れればましだという、そういうような売り方をする。ですから、儲からない。儲けるつもりで本を出すんじゃなくて、この内容を本当に読みたい人が読んでほしいという形で出していた。そういう不思議な長谷川祐寛という方がおられたんです。われわれ学生のころは安田先生のものを読もうと思っても、「文明堂」の本くらいしかなかったんです。
 
『安田理深選集』の刊行を志す
 私たちは縁があって先生にふれることができたけれども、先生は亡くなって行かれる。先生は、曽我量深先生について20代からずーっと50年以上教えを聞かれた方ですけれど、曽我先生は96歳まで生きられたけれど、それについてこられた安田先生が、曽我先生が亡くなる時には、もう70代。そういうふうになっておられた。だから、曽我先生が亡くなられた後、安田先生が亡くなられると、この大切な清沢先生の流れを受けた教えが聞けなくなる。そういう危機感も感じましたから、ぜひ先生のお話を文字に残しておいて、後で、心ある方が求めた場合には読んでいただけるようにと、そういう願いで、私は安田先生の講義を、たくさんテープは残っていたけれども、本がほとんどないという状態の中から、選集編纂を思い立って、たくさんの方にお手伝いいただいて、たくさんの安田先生を師とする方がおられましたから、その方々が、それぞれ責任をしょって下さって、編集することができました。
厚い本で、A5版で22冊。大変な量です。後から、足りないものですから、補うために別巻というのを次から次から、附け足していきました。それに入れられずに残った講義録で大切なものがまだたくさんあるんです。出したいけれどそういうむずかしい本ですから、今頃出しても、誰も買って下さらない。特に、今頃は出版界が難しくなって、ちょっと見て、易しくて、わかりやすい本しか売れない。
 
漫画で教えを説く時代――『ゼロからの親鸞入門』の刊行によせて
 私も、たまたま東京で、縁があって、若い女性から頼まれて、親鸞聖人についての本を出したいから相談に乗ってほしいと言われて、私も、安田先生の縁を受けているような人間ですから、易しく書く本なら私は役に立たないから、他の人を探してくださいと言ったんですけど、たまたまご縁で、私に食いついてきた。それで、本にしたいと言って、どういう本にするのかと思ったら、幻冬舎という本屋から『ゼロからの親鸞入門』という本を出してくださった。これはこのごろはやりの漫画です。
 名古屋御坊と同じように大変大きな別院が大阪にございまして、難波別院という。大阪も元々は蓮如上人の教化があって、商業都市ですけれど浄土真宗が人々の精神の根にしみこんでいる土地柄ですね。「おおきに、おおきに」という、あの関西弁のもとになるような言葉は、やっぱり報恩謝徳の思いから出ているなんて聞いたこともありますけれども、そういう深い背景がある難波別院が、仏法とか親鸞聖人を、漫画で出そうということを考える時代なんですね。これは時代です。漫画なんて言うものはふざけたものだなんて私どもの年配の人間は思うんですけれども、なかなかどうして、漫画とか劇画とかいう形で本当に伝達したいという願いを伝えるという時代になっているんですね。
 
安田理深著『正信偈講義』(全四巻)を法蔵館から発行
 まぁ、そんなことですが、安田先生の本などは難しい。けれど、33回忌を縁にして、やはり先生のお話を文字にして、読みたい人が現れた場合には読んでいただけるように、勉強できるようにしておきたいと思ったものですから、この33回忌を機会に、先生の講義録で残っていた『正信偈講義』を、宗門とご縁がある本屋さんとしては一番大きな法蔵館にお願いして出してもらうことができました。まだ4冊のうちの1冊しか出ていなかったのが、ついこの8月に入って第2冊が出ました。第3冊、第4冊まであるんです。もう2冊、出さなきゃならないんですけれど。
 
求道の人、安田理深先生のご生涯
 
明治維新の直前、生家が破産
 そういうことで、安田先生という方をお話するのは、一面で大変難しい。ただ、先生の人生をひとつの手掛かりにして、今日はお話をさせていただこうかなぁと思いました。先生は在家の方です。もともとのお生まれは兵庫県に氷ノ山という山がありますが、あのそばに日本海に流れ出ている川があるんです。温泉川という川です。何か途中とかに温泉が出るから、お湯のように温かい川なんでしょうか、温泉川という名前があるんですが、その最上流、つまり兵庫県という県は日本海と瀬戸内海と両方にまたがっていますが、隣の鳥取県は途中の山で岡山県と南北に分かれますね。広島県と島根県とが分かれるその真ん中の中国山脈の山稜地帯というのは、兵庫県の真ん中を通って、京都のあたりまで来ているんですね。その山脈の川が流れ出る源流の小さな村。
 安田先生はよく「蓑傘一つで田んぼ一枚」というような話をなさっていましたけれども、段々畑をだんだん奥地へ、奥地へと耕して、日本人は、人口が多い割には農地が少ないですから、とにかく、耕せる限りは田んぼにしていった。今は文化として段々畑を残そうということもありますけれども、昔はそんなんじゃない。とにかく少しでも水が引けて田んぼが作れるなら、田んぼを作ってお米を作ってということで、本当に命がけで山の中まで開いていったわけですね。その一番山奥の小さな村の生まれ。そこの、いわゆる庄屋の家筋だったのだそうです。けれども明治維新の直前に、まぁあの頃いろんな問題があったんでしょうけれども、世の中が混乱していたということもあるんでしょうけれども、その安田先生の実家、安田家が破産した。いろんなことがあるんでしょうね。世の中が大きく変わる時ですから、上に立つものが借金せざるを得ないような事情があったんでしょう。それで、つぶれた。
 
幼少期のご苦労――鳥取のキリスト教系の幼稚園に
 安田先生は、不幸にしてそういうわけで両親が離婚した。そして養子に来られた父親の実家が鳥取市にあった。鳥取の大きな商家だったそうです。その鳥取の商家に預けられ、おじさんに育てられた。安田先生の弟さんと二人。まだ5~6歳、5歳にもならなかったんでしょうか。安田先生が幼稚園に入る前に預けられた。お母さんはお一人で大阪に出られて、その当時女性が一人で生きようと思うとお産婆さんしかなかったというのですね。お産婆さんをして身を立てておられた。そういう育ちで、おじさんに育てられて鳥取に明治の30年代の終わりごろでしょうか、1900年代の初めです。1900年代の初めに鳥取にまでキリスト教が入ってきていたんですね。キリスト教の宣教というのはすごい力ですけれど、鳥取にキリスト教系の幼稚園ができていていた。その新しい幼稚園に、おじさんが入れてくださった。キリスト教系の幼稚園に預けられた。どういうつもりでそこにおじさんが入れられたのかについては全くわかりません。けれど、その幼稚園で安田先生はキリスト教の教えに出会った。幼稚園の時ですから、思想内容なんか分かるはずがない。でも、先生は晩年にいたるまでキリスト教のモノを読まれ、キリスト教の雑誌も、ずーっと亡くなるまで取っておられた。そして、ヨーロッパの思想を勉強して、特にドイツ哲学などを勉強なさって、キリスト教の影響のもとに成り立っている思想を深く勉強しておられました。
 
曹洞宗の禅寺に入門
 ところが、10代の半ば頃に、安田先生は何かの縁があって、鳥取市で一番大きな禅寺、曹洞宗の禅寺に入門なさった。その時、たまたまその禅寺の和尚が日置黙宣という方だったそうですけれど、そういう方がそのお寺におられて、安田先生の師になられた。安田先生は、その師について10代、16歳だったと思うのですけど、出家して戒名をもらっておられます。まぁ、おじさんの下には居にくかったということもあるでしょうし、幼年期から何か人間の悲しみ。肉親が生き別れて、母親も、貧しい生活をして、若くして亡くなって行かれたそうですけれども、そういう悲しみ。いろんなことを経験していて、何か、宗教、仏教を求めようと思われたのでしょう。禅寺に入門された。戒名をもっておられます。その方が、たまたま大正の初め、大正7年と聞いておりますけれども、大正7年というと1918年、安田先生は1900年のお生まれですから18歳。その時には既に2年間の禅の修行を済ませていた。若くして十代で道元禅師のものを隅から隅まで読み抜かれたようです。「自分は宗教的には早熟だったんだ」ということを笑いながら言っておられましたけれども、十代の頃にそれだけ禅に打ち込んで、道元禅師の、あの難しい道元禅師の文章をほとんどそらんじる位に身に着けられた。
 
金子大栄著『仏教概論』に啓発されて大谷大学に進学
 こういう方がたまたま岩波書店から出版された『仏教概論』を読まれた。大正8年の頃、だから19歳の頃ですか、金子大栄先生の『仏教概論』を読まれた。それで感動されて、「あぁそうか、こういうことをやりたい」と思われたんだそうです。それで、金子先生にお手紙を書かれたら、京都に出てきなさいと金子先生がお手紙で言ってくださったので、それを手掛かりに、安田先生は20歳の頃に京都に出られたそうです。20歳で、大谷大学に入学なさっている。金子先生について勉強を始められて、大正15年頃、つまり、安田先生の25~26歳頃、その頃にはもう大学は終了しておられたのでしょうけれど、京都で金子先生のお話などを聞いておられたようですが、たまたま曽我量深先生が、東京の東洋大学の仏教学の教授をしておられたのを、大正15年に、佐々木月樵先生が学長になられて、それで、曽我先生を大谷大学の教授に呼んだんですね。曽我先生が50代、曽我先生は1875年のお生まれですので、大正15年と言えば1926年ですから、満で言えば51歳か、その頃に、東京から京都に呼ばれた。曽我先生は清沢満之の門下として宗門からは、その頃は許してもらえなかった。宗門は古い体質のまま、封建時代の考え方のままの教義学と教えの形で、清沢満之をのけ者にしようとしていたわけですね。清沢満之の教えを受けたものは異安心だとして、何かよそ者扱いをして、宗門の大きな流れは伝統教学と称して、新しい流れである清沢先生の思想をくぐったような教えを嫌った。
 
佐々木月樵学長が曽我量深先生を大谷大学に招聘――その頃本山では・・・
 清沢先生の教えの本質は、求道心にある。激しい菩提心とその菩提心をもって親鸞聖人に直接師事を受ける。親鸞聖人の教えは、本当は何をおっしゃっているのかということを直接汲み取ろうとする学び。そういう学びは伝統教学では許されない。伝統教学は、伝統された流れをくむのであって、直接親鸞の教えを学ぼうなどとは、大胆不敵というか、畏れ多いというか、そういうことをする奴は異安心だといって初めから許されない。西本願寺でも東本願寺でも、教えを学ぶのは、祖師の伝承を受けた学びを学ぶのだ。伝統を大切にするのが教学であるという考え方ですから、祖師の思想そのものを学ぶなんていうことは、何という身分不相応なというか、そういう考え方ですね。封建時代の倫理を支えている、上を大切にする、長幼を大切にする、伝統を大切にする。それは美しい言葉ですけれど、いうならば、人間が主体的に本当に自分で探そうとすることは許さない。つまり、自由とか平等とか、主体性とか、そういうことは絶対に許されない。まぁ、そういう体質があったんです。ですから、曽我先生は許してもらえなかった。でも佐々木月樵師は、ご承知のように清沢満之の三羽烏といわれた弟子ですから、自分は仏教学をやったけれど、何とか清沢先生の精神のある、生きた求道心のある大学を作りたいと思っておられたから、曽我先生を呼んだわけです。けれども宗門全体の雰囲気としては、またあんな間違ったやつが入ってきた、大変なことだから早く追い出さなきゃいかん。そういうような考え方が圧倒的な時代です。
 
明治から大正へという時代状況――戦争をし続けなければ呑みこまれる危機感
 大正時代は大正デモクラシーといって、日本全体はある意味でちょっと自由な風が吹いた時代であるとは言っても、ご承知のように、明治から大正・昭和と戦争の時代でした。日本が何とか世界を相手にして属国や植民地にならないで立って行こうとすると、戦争をせざるを得ない時代でした。今頃だんだんいろんなことが歴史でわかってきましたけれども、日本が好きで戦争をしたわけでもなんでもないのですね。ヨーロッパの強国が、アジアを蹂躙していましたから、ほとんどアジアの全部が属国になっている。あの当時属国にならなかった国といえば、もう残っているのは日本だけだった。中国もほとんどがイギリスの属国だったわけです。そして、中国東北部はロシアが入ってきて、ロシアの圧力でシベリア鉄道が大連まで下りてきていましたから、もう20世紀の初め、1900年に入ったら、もう、もたもたしていたら日本もつぶされるような状況になっていました。だから、日清・日露の戦争をせざるを得なかったというのが日本の事情だったんですね。好きでやったわけでもなんでもないんです。やむを得ず、戦わざるを得なかった。まぁ、残念ながら日本は小さな国ですから、結局、世界を相手に戦ったら負けてしまった。これは歴史の必然ですから、やむを得ないのですけれど、間違いだったからやらないですんだかというとそれは難しい問題ですね。歴史というものは元には戻れない。そういう本当に矛盾したというか、悲しい歴史を引き受けて生きざるを得ないわけです。ともかく日本は嫌でもヨーロッパやアメリカを学び、早くに近代化して立って行かなきゃならなかった。
 そういう状況にも関わらず、仏教教団はみんな江戸時代の安閑とした状況のままに自分たちを守っていけば良いという発想だったわけです。
 
清沢満之の思想の先進性
 清沢満之は、たまたま東京に縁があって、東京帝国大学を出て、東京で学びをしましたから、ヨーロッパの力、アメリカの力、思想の力と物資の力、そういうものを知っていました。しかし、早くに親鸞聖人の教えが真実だということは、清沢満之は、とうに、若いころから自分でわかっておられましたから、この思想は、どれだけヨーロッパが来ようとアメリカが来ようと、科学思想が来ようと、人間の真実として間違いがない。この教えを本当に信じて、どれだけヨーロッパの思想が来ようとも負けないだけの知的な力と信念の力をもった人間を育てたいということで、清沢満之は真宗大学を京都から東京に移したわけです。
 
曽我量深先生の情熱と野心
 そういうことが分かってもらえない。もう、ほとんど、江戸時代のそのままの体制を守っていこうというのが圧倒的宗門人の感情でしたから、清沢満之の遠い視野というものが分からない。弟子たちも清沢先生の教えを受けて自分自身も本当に主体的に、宗祖親鸞の真実を学びたいと思うのだけれども、それが許されない。宗門の習俗も歴史的事情ですから、それはやむを得ないのですが、そういう中で曽我量深先生は、この宗門を背負ってなんとか本当に世界に冠たる親鸞教学の教団にしたいというものすごい情熱と野心とをもって大谷大学に来られた。
 
安田理深先生、曽我量深先生と出会う
 その曽我量深先生に安田先生は出会った。安田先生は、元々在家の方ですから、そして、禅をやって、仏教とはなんであるか、仏教とは求道を通してさとりを開く教えだと思っていたけれども、さとりだけではどうも足りないと。やはり、さとりということになれば時代を超えて、何といいますか、時代や社会がどうであってもいいと言うようなさとりでは、どうも自分にとっては面白くない。やはり時代とぶつかり、人間の苦悩とぶつかり、単にさとりに逃げ込むのじゃなくて、本当に闇にもがく人々と共に生きるという仏教、こういうものを明らかにしたいという思いがあった。これが『仏教概論』の中に流れている金子先生の菩提心と、そして時代の言葉をもって人間の苦悩に答えて行こうという思想の努力、こういうものに安田先生は、存在を震撼されて、そして京都に来られた。そこに、たまたま曽我量深という方が来られたものですから、安田先生は、曽我量深に帰依して、そして親鸞聖人の教えを本気で学んでくださったわけですね。
 
一神教の世界・仏教の世界
 
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同根の世界
 そういう流れ、それを一つの手がかりにして、私がここでお話をさせていただこうと思いましたのは、一番初めに先生が出会ったのはキリスト教ですが、今、世界を牛耳っている一神教が、一神教同士の戦いがどうなるのかというのが、思想の問題というよりも、人類の問題として大問題なんですね。イスラエルがパレスチナと戦争をやっていますけれども、あれも一神教同士ですね。
元々ユダヤ民族が持っていた民族の神話が旧約聖書ですから、民族の神話から、キリスト教は、イエス・キリストという人は、一人の神に召された子という言い方をしますけれど、神話から生まれた人間として、古いユダヤ民族の思想だけではダメだということを打ち出したから、初めは批判され十字架にかけられたわけです。ユダヤ民族の、言うならば、殺しても憎みたりないほどの異分子、異端だったんですね。だから十字架にかけられたわけです。けれど、十字架にかけられたことを機縁にしてキリストの思想が世界の思想になったわけですね。それでまぁ、すごい力をもってきた。そのあと今度は、イスラム教が出てきた。イスラム教はご承知のように8世紀くらいに、砂漠地帯で神の言葉を聞いたというマホメットという人が出てきて、本当のエホバの神の心はわしにあるというわけで、新しくまた一神教を開いた。だから一神教同士が、今、イスラム教は南に広がってイラン、イラクを通ってインドの一部を通っています。パキスタンやバングラデシュ。あのへんは、ずーっとヒンズー教だったところに入って行って、そしてフィリピンとか、あるいはジャワ、スマトラなどのインドネシアを通って、ずーっと南にイスラム教は伸びて、インドネシアの国民の90パーセント以上がイスラム教徒になったというのですね。アジアの人口の半分以上、70%、80%がイスラム教徒なんです、実際は。だから、大変です。これから、一神教というものがどうなるのかということは、人類の運命にも関わる大問題だと私は感じているんです。そういう一神教に初めに出会っている。
 
一神教の世界構造――人間は神の被造物
 一神教というのは、神がまずいて、神が世界をつくったという神話から出ています。旧約聖書はそういう形で始まっていますから、それを、人間を包む世界構造として、神様が世界を作って、作った世界の中に人間は被造物、作られた存在である。作り出すのは神様、人間は作られた存在として、あらゆる存在は被造物としてあると。有限な存在は全部神様が作った存在だという世界認識。これは、だから、仏教を宗教的信念としている人間からするとちょっと考えにくいんですけど、哲学と一神教とは、初めからすごいぶつかり合いをしてきた。ギリシア哲学とキリスト教とは、もう初めから思想的敵対同士ですごいぶつかり合いをしてきているんですね。しかし、それによってギリシア哲学の哲学性をキリスト教は取り入れて、論理化し、その初めから神が牛耳っているという構造がどうして正当かということを論理化して、キリスト教学というのがすごい説得力をもつ教義学になっているわけです。だから、初めから、人間を救うというよりも、人間存在は神様の大きな世界の中にある一つの存在だという認識構造が一神教のもっている力です。だから、キリスト教の学びは、自分からするというよりも、生まれたときから神のもとにあって、作られた存在として育つ。だから、生まれたらすぐに洗礼を受けて神の子として育つ。そういうふうにしてきているわけです。それが、それぞれ一神教にはみんなある。この世界観が絶対正しいんだと。だから神様は一つ。エホバの神はユダヤ教の神でもあるしイスラムの神でもあるしキリスト教の神でもある。神様の本体は一つです。ただ、それがそれぞれ、地上に遣わした場合が違うから、教えの形が違ってきて、信じる内容が少しずつ変ってきていますけど、世界構造としては皆同じ構造だといってもいい。
 
さとりの仏教では納得できない
 そこから、安田先生は、縁あってキリスト教の教えには行かなかった。たぶん、十代の頃に教会を訪ねていると推測されますけれど、キリスト教に行かずに、禅宗に行った。どうしてかということは分かりませんけれども、禅宗の、道元禅師の教えに行って、自分で自分の迷いを晴らすと、自分の妄念を自分が晴らすことができるという形で、求道をし、修行をした。そしていい師匠についた。日置さんという人は、鳥取のお寺からのちに、福井永平寺の管長になられたそうですから、そういう人に出遇ったのです。すごい力のある、その当時を牛耳るくらいの人がたまたま鳥取におられた。若い頃に、その人を師匠として学んで道元にふれた。だから、安田先生は、ある意味で運が良かった。けれども、さとりの仏教では自分は納得できないと思ったというのが、すごいと思うんです。それは、初めにキリスト教にふれていたから、何かそういう世界構造としての人間存在というような問いがどこか、根にあるんだろうと思うんです。だから、自分だけさとりを開いて助かったという、そういう仏教では自分が納得できなかった。それで、たまたま金子先生を縁として真宗大谷派の近代教学(親鸞教学)にふれてくださった。それは、つまり、世界宗教である様な一神教から、禅、禅は中国と日本と台湾や朝鮮も含めて、仏教国全体に通じるような考え方だと思いますけれども、禅の修行をしてさとりを開くという教えにいっぺん入られた。
 
一神教の世界構造を離脱した釈尊
 この仏教について安田先生は、「宗教の終わるところに仏教が始まる」、そういう言い方をなさったことがあります。宗教が終わるというのは、一神教の世界構造というものは、世界構造ですから、これは真理かどうか、その世界構造に納得するかどうかということは、もう大変な問題なのでしょうけれど、その問題に納得しないで出家、修行をしたのが釈尊ですね。ヒンズー教もある意味でインドの神ですけれど、すごい力のある神の下に、たくさんの神々がいて、その神々のもとに人間がいるという構図ですから、いわゆる一神教ほど強い、一人の神様というわけじゃありませんけれども、何か、構図としては、世界の構図としては神様のもとに人間がいるという構図をもっている。神様によって人間が生きる。
 
人間存在を解決する道を探して、それを見出した釈尊
 シッダルタ太子は、神様によって人間の正当性が認められるという、そういう発想を、自分は許さないというか、それでは助からないと見て、出家修行なさった。お釈迦様は、インドのヒンズー教の教えに立って、ヒンズー教を信じていればそれでよかったはずの家筋ですね。クシャトリア階級というか、王族の出ですから。でも、それに納得せずに、一人の修行者として、家の身分も捨て、一切の財産も棄て、自分自身とは何であるかということのために道を求められた。そして、自分の苦しみの根源に無明があると、自分の苦しみは神様が作ったのでもない、自分が作ったのでもないけれども、自分に巣くっている闇。つまり、自分を愛着するという我執があるという、そういう自分にとっての盲点があって、これを晴らさないと人間は助からないということ。人間存在が自分自身の根本問題を自分で自覚して、それから離れて、人間を解放された自分として見出そうという、そういう道を、世界で初めて開いた人がお釈迦様である。だから、お釈迦様の仏教というのは、いわゆる一神教的宗教とは違うわけです。一神教的宗教の最後にそれを棄て去って、人間存在として人間存在を解決する道を探して、それを見出した。
 
我執の根は遺伝子にあるというほど、根は深い
 仏教というのは、だから、そういう意味で神様を信ずる、非常にがっちりした構図ではなくて、自分が自分を自覚して自己を明らかにするという道ですから、大変といえば大変です。それを求めようとすると、いくら求めてもよくわからないというか、そしてそれから離れようとする我執というのは、無始以来、生命が始まって以来続いている、生命が生命を愛着する、自分が自分を愛着する、生命が生命を、自分が自分のいのちを愛着するという作用ですから。これは今の生物学者の、分子生物学などをやっている人が、遺伝子というのを研究していって、遺伝子は自己を愛着する性質があるなんてことを言っているんですね。つまり我執の根は遺伝子にあるなんてことを言っている。それくらい根が深い。つまり、遺伝子は他の遺伝子と自分とをちゃんと区別する作用を持っているから、遺伝子がある事によって遺伝子が分裂して自分となっているけれども、他の遺伝子が入ってきたら、他とわかるから、それを排除する作用をもって、いのちは自己を保存することができる。自分が生きていることができるのは、ばい菌やら細菌やらがいっぱいある中で、ちゃんと健康に生きていられるというのは、そういう生命が自己同一性をちゃんと見分ける作用をもっているから生きているわけですね。これを免疫作用という。自分の中に入ってくる他をそのまま許していたら、たちまち病気になって死んでしまう。腐敗菌がうようよしているわけですけれども、腐敗菌が生きている人間には取り付けないのは、ちゃんと排除する作用をもっているからですね。死んだ途端に腐敗菌は、それ行けってわけで、もう遺伝子が自己保存作用を失えば、もうタンパク質は腐敗菌のえさになる訳ですから。たちまち腐ってしまうわけです。だから、遺伝子に自我があるといわれれば、なるほどなぁと。そんな根の深い自我意識が自分になって自分を愛着しているわけだから、取り除こうったって取り除けないわけですね。でも、それが根本問題である、生きていることの根に根本問題がある。
 人間として生きているということの根に、どうにも抜きがたい根本問題があるということを見出した。だから、釈尊という人は、ある意味ですごい人なわけですよ。それで、そういう智慧をいかに人々に教えて、人々が人間として自立して、人間として、いただいたいのちの状況がどんな状況であるかを問わず、自己自身の、いのちとは何か、いのちの尊さと、そしていのちをあたえられている根本問題を見出して、それを乗り越えていけるよろこびとを教えていこうとなさったのが教主世尊、仏陀釈尊のお仕事だったんですね。だけど、それをいただいた側は、それを自分で釈尊のように主体化しようとしても大変に難しい。そういう所が一神教と違う。
 
一神教は「神の言葉」を直接聞いた人が書いた――神の言葉の権威を守る
 一神教は初めに神様がいたという話から始まるから、聖書にしても、他の人間が作ることを許さない。神様の言葉を直接聞いた人間が書いていると言う。それが神様の言葉だ。だから、聖書は一冊でいい。コーランも一冊でいい。初めは、元々の言葉は、ユダヤ教ですから、ユダヤ人が使っていたヘブライ語の聖書が一番の根本で、初めは翻訳を許さなかったらしいです。でもキリスト教になって、キリストが一応ローマで布教しましたから、ラテン語の聖書というものができてきた。ラテン語の聖書が正しい聖書だということでイエス・キリストの弟子、十大弟子といわれますけれども、ともかく弟子たちがラテン語で聖書を作った。近代に至るまで、16世紀くらいまではキリスト教の教えは、聖書を直接学ぼうと思ったら、ラテン語を学ばない人は学べなかった。ラテン語は貴族と知識階級のモノだったんですね。ヨーロッパの庶民は、その土地その土地で、土地の土着語を使っていた。それが今フランス語になったりドイツ語になったりしていますけれども、もともとはものすごくたくさんの種族がいて、言葉が土着語としてあって、ヨーロッパ方言というか、そういうものはそれぞれ民族によっても違うし、言葉もいろいろと歴史によっても違っている。そういう言葉に神様の言葉を翻訳してはいけないと考えた。だから、ラテン語を学ばないとキリスト教の本当のことはわからない。
 庶民の宗教となったキリスト教というのは、ある意味で、まぁ、素朴な意味で、いろんな要素が入り混じっていると言ってもいいようなキリスト教だったんでしょう。今でも、南米の方に行くと、南米の方にアフリカから連れてこられて、奴隷として使われた黒人の方々がお参りする教会の、イエス様は金色ですけど、マリア様は黒い顔をしたりしているんですね。地元の人はこれをマリア様といわないで地元の太陽神の名前(グアダルーペ)で仰いでいる。そういう雑多な信仰を取り込んで、キリスト教はそれを包んでいる。もともと世界構造ですから、土着の人たちの神様があっても、それを包んで一番偉い神様が牛耳っているという考え方です。まぁ、そういうふうにしてカトリックというのは世界宗教になっているわけです。
 話が横にそれましたけど、とにかくイスラム教も、コーランは、もともと、アラビア語、だからアラビア語で神様がしゃべったのをマホメットは聞いたから、神様の言葉はアラビア語だと。だから神様の言葉を勉強しようと思ったら、アラビア語を勉強しなければならない。インドネシアの人たちは、だから、みんなアラビア語を勉強しなければならない。
 
仏教の求道心――自分の根本問題は自分で考えて明らかにする
 そういう神様の宗教に対して、仏教は、自分が考えて、自分の根本問題は自分で明らかにして、自分自身を救っていくわけですから、だから、言葉は、自分が考える言葉で、考えるわけですから。だから、はじめから、お釈迦様が何語でしゃべったかはわからない。お釈迦様がしゃべった言葉というのは残っていないのです。お釈迦様がしゃべったことを弟子たちが編集した言葉が経典になっている。お釈迦様が亡くなってから編集作業が行われたのです。亡くなってから編集された。その時に何語だったかっていうのもよくわからない。何も残っていない。その後だんだん歴史がたつにつれて、編集し直し、編集し直しして、編集する中に、「如是我聞」していく。それぞれ主体的に、自分が仏教を求めていく。初めから求道心が絡んだ教えですから、菩提心なくして知的関心で仏教を求めるなんてことは、初めからありえないわけです。自分の根本問題を自分で自覚して、それから解放されるという要求で仏教を勉強するんですから。
 そういう要求で伝えられた言葉を勉強し、それを主体的に理解する。そうすると理解の仕方は少しずつ、人によって変わっていく訳です。それが、それぞれの地域で、インドでも、インドだってたくさんの言葉があって、今でもそうらしいですけど、インドは大きな国ですから、インドという国は、その土地その土地の言葉であって、他に行ったらほとんど言葉は通じないそうですね。その位いろんな言葉がある。ヒンズー語というけど、ヒンズー語をしゃべれる人なんて、ほんの一部しかいないらしいです。まぁ、むしろ英語が通じる。四百年近く属国にされていましたから。イギリスの植民地になって、宗主国の言葉は英語でしたから、英語ならかなり通じる。それでもまぁ、インドのほとんどの人たちは土着語をしゃべっているわけです。そういうのがインドの状況です。仏教は、その地域、地域に伝わって、その地域の言葉になった。だから、西域に伝われば西域の言葉になった。また、中国に来たら中国の言葉になった。中国人は中華思想があるからでしょうけれど、中国語になった仏教を解明する。元のサンスクリット語なんて読めませんから、いらないから捨ててしまった。今の仏教学者は、それを取っておいてくれたらなぁっていうでしょうね。翻訳されたら、もとのサンスクリット語の言葉は残らないのですね。持ってきた人は、ほとんど頭に叩き込んできているのと、たまたま書いてきたものは、もういらない。翻訳してしまえばいらない。その翻訳は三蔵法師が死んでしまえば、もうなくなってしまう。そういう形で中国語になった。その中国の仏教が日本に来ている。
 そういうわけで、安田理深先生は、世界宗教である一神教から自覚の宗教である禅に入られた。ところが禅の問題は自分にとって、さとりとしては問題が済んでいるけれど、時代の課題が済んではいない。どうも、禅でさとりが開けて助かったというだけでは納得がいかないという問題があったのではないか。それが何であったのかというのは、これはよくわからない問題ですけれども。状況としては世界思想だとか世界状況だとか時代状況だとかということですけれど、それを生きている自分からすると、自分の持っている根本問題の根というのは、さとりを開いて迷わなくなることなのかといったら、そうではない。悟後の修行という言葉が禅宗にはあるけれど、修行に終わりはないと。いったんさとりを開いて終わりかというとそうじゃない。それからが大事なんだと言うようなことを言っている。
 
深く自身を信じて生きん――安田理深先生のご生涯から受け継ぐこと
 その問題は、人間の愚かさ、親鸞聖人が愚禿親鸞とおっしゃって徹底的に罪の深い人間、愚かな人間、しかもさっき言ったように、その、自我に執着する思いの深さというものは自分の理性的反省が届くよりも深い。自分で掘り起こすことができないほど自我愛の根は深い。それを掘り出して捨てることは出来ない。そういう問題をいかにして乗り越えるかという問いをもってしまったら、おそらく禅宗には、もうとどまれない。何かそういう問題があって安田理深先生は深く親鸞聖人に帰依して、曽我先生を師とし、金子先生を師として、一代を歩まれて、これで良かったといえるようないのちを生きてくださった。
 ですから、一人一人が、機の深信をいただく。つまり「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という、真に助かる道がない身であるという深い自覚をくぐって、にもかかわらず、そのいのちを帰依する場として、阿弥陀如来の大悲を信ぜよという教えを与えてくださったということ、この大いなる光明無量のひかりに照らされて、地獄一定の身に安んずるということ。このことと、安田先生が晩年に老人性の肺結核に犯されて、はあはあと苦しそうな息をしながら、それでも思想的な格闘を持続して止まなかったことを憶念するとき、私たちの生命は、ひとりひとりの宿業因縁の相違を与えられながら、大悲の眼においては平等の苦悩の衆生として、煩悩を具足するままに、光明の摂取に触れていくことが出来るということを知らされます。「不安」も煩悩のはたらきですから、いのちとともに消えることなくはたらいているのでしょうが、その不安を大悲にお預けして、大悲の願心に立つしかないと覚悟するのでしょう。
 我執の根は遺伝子レベルの免疫作用から来ているなどとも言われるほどですから、意識上の問題解決では届かない深さを、生命自身に根ざす不安としては感じていると思われます。この不安を取り除こうとしても、不可能なのでしょう。それを無限大悲にまかせて、前向きに生きようとされたのが、安田理深先生の「不安に立つ」という言葉だったのだと思います。先生がお亡くなりになった時の、お部屋にあった机の上に、茶封筒に赤鉛筆で「片肺 老衰 不安に立つ」とメモされていたとお聞きしています。
 ここに生きている事実があるということを自分がどう解決するか。この道を親鸞聖人は明らかにしてくださった。だから、仏教が宗教の終わる所であるならば、その仏教の終わりの所に浄土真宗はあると言ってもいい。仏教の一派というよりも、親鸞聖人の教えこそが真実の大乗の極致である。真宗とは、一乗思想の極致であると言ってもいい。これに出遇わなければ、仏教は解決できない問題をどこかでもっている。こういう意味があるのではなかろうかと思います。こういう非常に深くて大きな問題。大げさに言うならば、世界状況を解決しうる様な課題を、安田先生は掘り下げてくださった。これを、なかなか受け継ぐ者がいない。受け継ぐだけの力もないし、なかなかわからない。私なんかは、本当に力がないままに先生の弟子の様な顔をして、こうして語らせていただくのすら申し訳ない。そう思っていることですけれど、難しいからといって、堅いせんべいだからいらないというんじゃなくて、堅いけど噛んでいれば、他にない味がするんだということを知っていただいて、食いついて下さる方が一人でもあったら私はありがたいと思うことでございます。今日は、大変失礼致しました。
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