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御遠忌からの道

<目次>
・御遠忌からの道1:記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」
・御遠忌からの道2:記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」

記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」(御遠忌からの道1) 


名古屋教区・名古屋別院で厳修された宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要では、さまざまな行催事が行われました。
それぞれのスタッフ、参加者がともに向きあった課題とは何だったのか。いま改めてふり返り、「御遠忌からの道」を尋ねます。
第一回は、記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」。
五十年前、『名古屋御坊』創刊時に編集委員をつとめられた亀井鑛氏が司会役となり、
本紙でもながく連載いただく本多弘之氏、
さらには作家の高橋源一郎氏を迎えた「公開座談会」です。
当日は、三氏それぞれの仏法とのご縁から語り出されました。

亀井 鑛 氏
Hiroshi Kamei
本多 弘之 氏
Hiroyuki Honda
高橋 源一郎 氏
Genichiro Takahashi

 


本多

親鸞聖人の教えを学び始めた頃、祖父が祖母の為にガンに効くというような水をもとめてまして、命がかかるとそんなこともするのかなあと見ていました。人間というのは、自分の意志で決断して立派なことをやっていけるように思っているけれども、与えられてあるいのちというものは本当に弱いもので、愚かなもので、おまけに短い人生ですね。何を生きたかわからんような一生。そういう人生になんの意味があるんだろうかという問いが、生きていることの底から発ってくる。そういう中で、本当に愚かで罪の深いことを徹底的に引き受けて、しかも、現に明るみの中に生きられるという道を開いてくださったのが親鸞聖人です。そんな明るみがほしいなあと、日暮らしをしながら求めているものです。
 
 亀井 実は、私は仏教に非常に反発を持った若者でした。それが、父親が早く死んで仏法のご縁をいただいたんですが、お寺に行っても、自分の口から念仏なんて出ないんだと拒否的なことを口走っていました。そうするとご住職は、「いやあ、あんたのいうことよくわかる。私も実はお寺が嫌いなんだ、住職落第の私なんです」と、門徒が集まる席ではっきりと告白なさる。その時に私は、ああ、本当に寄りそってくださるような親近感の持てる人だなあという、一つの感動のようなものを無意識的に味わっておりました。意識的には反発ばっかりの私が、連帯感、信頼感をひとりでにいただいておる。これが南無阿弥陀仏という世界でないかと後になって頷かされた。これが私のいただいた仏法とのご縁です。 
 
高橋 僕はもともと信うすき者なので、縁はありませんでした。しかし、気が付くと親鸞のそばにいるような気がするようになってきたんです。僕はいま大学で教えていますが、五年前の3.11の時、何人かの学生が「ボランティアに行かなきゃいけないんでしょうか」と僕に聞いてきたんです。僕は即答しました。「行きたいと思わなかったら、行かなくていい。周りを見て合わせる必要はないよ」と。これ、僕としてはよく考えたつもりだったんですが、これが「浄土の慈悲」ってやつ?って思ったんですよ。僕は親鸞について詳しいわけではありません。親鸞に興味をひかれて、「かっこいいな」とか、「これ僕も考えたことあるような気がする、さすが親鸞、七百五十年前に考えてる」とか思ってきたんですが、そういうことが何回も起こりました。何か真剣に物事を、社会について、個人について、生きることについて考えていくと、僕のような不信仰な人間でも、親鸞が言っているようなところにぶつかっていることが多い。これはなぜか、今日はその謎が解けるといいなと思っています。 
 
亀井 「これを為すべし」という「聖道の慈悲」に対して、親鸞聖人のいわれる「浄土の慈悲」は、「せずにおれない」、奥から自然にこみあがるような慈悲だと、学生さんとの対話の中で高橋さんはそのように話されたんですね。 
 
高橋 僕は大学で教えるようになったこの十年ぐらいで自分がすっかり変わった感じがするんです。教えられた気がするんです、若い人たちに。  ある大学院生と「幼児洗礼」の研究をしたんですが、神様との契約である洗礼を意志もない赤ん坊にさせるなんてあり得ないとカール・バルトという神学者がいったんです。それを、オスカー・クルマンという別の神学者で神父でもあった人が「そもそもバルトは信仰が分かってない」と反論した。信仰というのは神様との契約じゃなくて、神様はただ勝手に愛をくださるだけなんだ。それはもらっときゃいいんだと。その論争は決着しなかったようですが、大学院生の彼と話していて、これクルマンの方がいいねって思いました。  信仰というのは、こっちから向こうに行くんじゃなくて、浄土の方から来る光に包まれるようなものだ。一対一の契約って、そんなのは資本主義の経済原理そのものじゃないですか。イエスは人類の罪を代りに贖うわけですね。自分の罪でもないのに。よく考えたら「原罪」から始まるキリスト教の信仰は人にマイナスからスタートさせてる。不合理です。その時はまだそんなに親鸞とか読んでなかったんですけど、いやこれは信仰はすごいわって思ったんです。
 
次号に続く/文責編集部
 
    

記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」(御遠忌からの道2) 


7月号に引き続き、亀井鑛氏、本多弘之氏、高橋源一郎氏による「公開座談会」の抄録を掲載します。
 

高橋  やっぱり信仰ってすごいなと思ったんですが、でもやっぱりこの社会に生きていると、マイナスからスタートするような考えにはなかなかなれなかった。ところが、次男が重病になったとき、びっくりするような経験をしました。病気自体は通常の感覚でいうと大マイナス。絶望の淵に沈んでいくはずだったのに、彼を支えていこうと決めたら、逆に、ものすごく元気になった。僕はそれが宗教的な力、要するに「他力」なんじゃないかと思うんですよね。
 
亀井  本多さんが、「罪深さを引き受けていくところに開かれる明るさを我がものにしていきたい」とおっしゃられましたが、そのことと結びつくわけですか。
 
本多   私たちは、自我が何かに関わっていくという形でしかモノが考えられない。そして、それが妄念なんだと気づけない。自分の存在は、自然の色んな因縁で与えられてあるんだと、その気づかせる力を教えとして他力とか本願というんだと思うんですよ。だから、他力という力がどこかにあるんじゃなくて、例えば「大マイナス」で気づかされたら、その「大マイナス」こそ本願力を生み出してくる力になるわけですね。
 
高橋  子どもが入院した病院は重病の子ばっかりでしたが、ほとんど父親の姿は見かけない。父親は社会生活を自分で何とかしてきたと思っている「自力」の人だから、自分が無力だと分かる場所に来たくないんです。一方、お母さんはみんな明るい。元気だろうが病気だろうが死のうが自分の子どもなんで、「もうどうしようもないじゃないですか、何もできないんだもん」とあるがままを受け入れる。
ところが、父親も自力が無理だって分かるとだんだん変わってくるんです。だんだんいい顔になってきて。
 
亀井  つまり、それは弱さに目覚めるというか、承認するというか。自力無効を素直に引き受ける。
 



高橋 やっていることは世界を受け入れているだけ。でも、それってすごい難しい。
 
本多 その受け入れるということは、そこはねえ、人間の難しさで……。誰もが自分が出あっている問題をどこかで破るような智慧を求めていると思うんです。だけど、世俗生活を成り立たせている自力の発想をよしとしていますから、これが問題だと気づくことができないんですよね。
 
亀井 それ、『弱さの思想』という高橋さんの本にありましたね。親鸞をそのまま証明してるなあと随所で感じました。そこでは「弱さ」という言葉で集約されてますね。
 
高橋 弱い人がいると、要するにマイナスがあると、その周りの人がプラスになっちゃうということです、すごく簡単に言うと。九州にある認知症の施設ですが、そこに集まる人たちが、ほんとうに感じいい。その施設では、人間が徐々に衰えていくのがなぜいけないのかと考えて、認知症をまず自然なものとして受け入れる。だから、みんな徘徊し放題。何というか、その施設に行くと、これが浄土なんじゃないかと思ったりするんですよね。みんな元気で楽しそう。
 
亀井 認知症を、死んでいく途上で歩む、緩やかな下り道なんだと。それが弱さの容認ともつながっていくわけですね。
 
本多 認知症について、初めに知的自己、次に情的自己が落ちる、最後に残るのは霊性的自己なんだという見方があって、なるほどと思ったんです。我々が生きているということは実は如来の大悲がかかっていて、その存在の真理に触れろと、触れなければお前は助からんぞという使命を与えられてある。それを如来の「欲生心」という言葉で教えていますが、それが実は霊性的自己。つまり、欲生心が残るんだと、その上に情的自己やら知的自己やらが乗って生きている。認知症はその本当のところが出てくる。その本当の自己をいかに活性化するかといったら、本当の自己、霊性的自己、欲生心のはたらきに気づいていく。これは、高橋さんの話でいえば、「大マイナス」を力にするとか、降りていく坂道を楽しむとかね。そういうことは自分でしようとしてできるわけじゃなくて、それが本当のあり方だと気づく。だから、ボランティアでも自分がやるんじゃない。もっと大きなはたらきがはたらくんであって、自分はそれをいただいて伝える役割をするということですね。
 
高橋 自力ではほとんど何もできない認知症の老人や病気の子どもたちを見てると、僕なんか、心の中でざわめくものがありますね。それはもしかすると、僕らのある可能性とかというものを見させてくれる何かかもしれない。だからやっぱり自分でがんばって何かするんじゃなくて、まあ、がんばれない時もありますよね。真理が分からないで迷いながら、分かったと思うような時もある。でも、来るときには向こうから勝手に来る。そういうのは一つの希望みたいなものとしてあると思うんですよね。
親鸞の言葉はこういう時代にいまだに輝きを失わないどころか、かえって光を増しているのがすごい。それが、信仰のアウトサイダーとしての素直な感想です。
 
本多 アウトサイダーと言われますが、みんな一人の愚かな人間として真実に出あってほしいというのが親鸞ですね。せっかく大悲の中にありながら、自己所有に閉鎖する。そんな発想がすてられない。それに気づかされて、もっと広い世界の真理を語ろうとするんですよ。
 
高橋 僕も愚かさでは負けないんで、大丈夫だと思います(笑)。
 
亀井 その一点において誰もみな共有できますね。愚かさ、弱さ、それが自力無効ということですね。
 

第二部「座談会」(定員50名)

本堂での「公開座談会」後、第2部「座談会」が開かれた。参加者からの質問で、ともに学びを深める機会となった。
 



親鸞聖人は「往生」をめでたいことだという生死観を説いていますが。
 
本多 死が悲しくないはずがないんです。しかし、死ぬことは人間の必然なんだから、それを縁にして教えを聞くわけです。死んだら浄土に往くというのは情念的な表現ですよ。教義学的ではない。往生という言葉は、本願が開く世界と我々凡夫の世界のはっきりした違いを教える。そして、如来の大悲の世界と煩悩の世界との間に名号のはたらきをいただけば、この人生に光をいただける。死んでからたすかる話じゃないんですよ。
 
高橋 僕の親鸞に関する最大の謎というか、一番おもしろいのは、浄土ってなんだ? ということなんです。親鸞の手紙で「浄土で待っている」というのを読みましたが、これはいわゆる「あの世」。そうじゃない使い方もしてるんですが、それがよくわからない。僕が思うには、生と死の中間にある何かを浄土と名づけている。そこから手をさしのべてくれないと僕らは死ということがわからない。だから実際の場所でなくて観念的なところ。というのが、僕の現時点での解釈です。本多先生どこが間違ってるか教えてください(笑)。
 
本多 浄土という言葉自身は、仏陀が持った環境で、それはさとりを象徴しているわけです。さとりということは自分一人が喜んでいる世界じゃなくて、必ず人々を巻き込むというか、それに触れれば仏陀の功徳を味わうようになっていく、そういう場所を浄土と大乗仏教が表現したんです。それから、一切衆生を救いとらないと自分は仏にならんという阿弥陀の本願のはたらく世界を形にするとどういう世界かということで、その本願の内容として浄土も語っているわけです。ですから、実体界があるわけじゃない。そのはたらきかける具体的な事実としては南無阿弥陀仏。名号を本当に聞くということ以外に、浄土がどこかにあるんじゃないんですよ。
 
いま政治が動いている状況で、真宗として何ができるでしょうか。
 
高橋 よく考えるんですが、親鸞だったらどうしたか。『教行信証』の学者・親鸞と、『歎異抄』の唯円としゃべっている親鸞とが、僕は別人に思えるんですよ。振れ幅が広いというか、学者もやるけど、いざとなったら外にも行くよという、これが親鸞の魅力だと思うんですよね。だから、もっと社会にメッセージを送るような何か、「真宗大谷派グッジョブ!」といわれるような社会的アクションをしてもいいんじゃないかと思うんです。もちろんその反対に外向きのことはしないという振幅の広さもあって、何もしないことから、極端にすることまでを揺れ動くのがいいなと、個人的には思います。
 

(文責編集部)


 

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