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御遠忌テーマや御遠忌特集 (『名古屋御坊』新聞より)

『名古屋御坊』新聞に掲載された、御遠忌テーマの「ともに生きる―いのちのつながり―」を取り上げたものや、御遠忌関連特集などを掲載いたします。

目次

特集

特集「親鸞聖人と尾張門徒」展の開催に向けて(2016年3月号)
特集「同朋会」(2016年2月号)
特集「沖縄」(2015年12月号)
特集これってなあに?大谷派の仏華(2015年11月号)
特集これってなあに?イラストでみる"御遠忌法要"(2015年10月号)

御遠忌・ともに生きる―いのちのつながり―

ともに生きる─いのちのつながり─つながりを生きるとは 文:本多 弘之氏(2016年4・5月号)
ともに生きる─いのちのつながり─死者が生きる場所 文:高橋 源一郎氏(2016年3月号)
ともに生きる─いのちのつながり─背き違う我の自覚 文:亀井 鑛氏(2016年2月号)
ともに生きる─いのちのつながり─(2016年1月号)
「報恩講」と「御遠忌」の歴史に学ぶ 文:安藤 弥氏(2015年12月号)
映像作家・今村彩子さんと考える「ともに生きる -いのちのつながり-」 今村彩子氏(2015年11月号)
ともに生きる─いのちのつながり─“みんなの学校”はともに学びあう場所 文:木村 泰子氏(2015年10月号)
ともに生きる─いのちのつながり─「命どぅ宝」は法蔵菩薩の願心です。 文:知花昌一氏(2015年9月号)
ともに生きる─いのちのつながり─御同朋とは ともに生きる尊敬される関係 文:知花昌一氏(2015年8月号)
ともに生きる―いのちのつながり― 写真:渡部陽一氏(2015年7月号)
「あまねくともに生まれよ」という呼びかけ  文:三木彰円氏(2015年6月号)
「ともに生きよ」という呼びかけ  文:三木彰円氏(2015年5月号)
ともに生きる―いのちのつながり―  書:澤田佳久氏(2015年4月号)

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―

慙愧からの「ともに生きる―いのちのつながり―」 本部長 藤原 正雄氏(2016年4・5月号)
声があふれる御遠忌を  行事部委員 植田 智行氏(2016年3月号)
境内整備に込める願い  事業部副部長 水谷 玄氏(2016年2月号)
お参りの環境を整える  参拝部委員 北畠 忍氏(2016年1月号)
震災から問われ続けるわれら  行事部員 大河内 真慈氏(2015年12月号)
ともに歌おう 声高らかに  法要部音楽班 花園 しをり氏(2015年11月号)
命に向き合い、命を生きる  渉外部副部長 石原 由美氏(2015年10月号)


ともに生きる─いのちのつながり─つながりを生きるとは?(2016年4・5月号)


名古屋教区・名古屋別院でお勤めする親鸞聖人の750回御遠忌法要では、「ともに生きる―いのちのつながり―」というテーマが選びとられた。
『名古屋御坊』の連載「悲願の鉱脈を尋ねて」で、浄土の教えの中心課題ともいえる本願文を尋ねる本多弘之氏は、「つながり」ということに〝警戒〟の目を向ける。
現代日本として歩み来ったこの国において、つながりを生きることの困難さ、危うさを読み解く指摘は鋭い。
個々の都合をぶつけ合いつつ、さらに世間に流され続ける我が身を持て余しながら、いま、ここに生きるこの私を親鸞聖人が見ているようだ。

 

 現代社会の病理現象として、人間関係のつながりが切れていることにより、「独居老人」とか「孤独死」という事態が頻出していると指摘されている。たしかに現代は個人主義的風潮が強くなっているし、人と人とのつながりが弱くなっていることは否定できない。しかし、これを理由に、昔の村組織や隣組のような強い制約を持った連帯組織を現代社会に復活できるかのような、時代を逆転させようとする思想傾向が出始めているのは、注意すべきことではないかと思う。「つながり」に関することを少し丁寧に考えてみたいと思うのである。
 日本の近代は、長い間の江戸幕藩体制の下で、社会体制も人々の生活習慣や価値基準のありかたも、しっかり定着していた。そこから、一気に西欧の文明社会に追いつかなければならなかった。それは近代日本の不幸であった。近代文明の方向には、農村共同体の人々を都市社会に労働者として吸引し、工業力によって大量生産・大量消費を推し進め、人間の個人化・アトム化を進めることがあるからである。
 農村には、個人労働力の集積と共同作業によって、「ものの大切さ」を丁寧に保持する価値観があった。そこから、近代の工場生産による大量で低価格な、しかも平均化したものを購買することによって、生活全般を手仕事から解放し、大量の消費に馴染むように、生活習慣から人間関係まで、生活全体の構造的変容を、短時日に強制的に果たし遂げなければならなかった。明治以降の日本は、島国の利点を生かして、国家による教育や情報の管理により、この困難なこの急変革と転換を見事に成し遂げたかに見えた。
 しかし、急いで西欧の文明に追いつくために、西欧が近代化する過程になしてきた全世界への武力による進出と植民地政策の流れを、強引に模倣し競合しようとした。そして、中国・朝鮮への出兵による植民地拡大の結果、世界を敵とする十五年戦争・太平洋戦争へと突入したのであった。その結末は、悲劇的な無条件降伏による敗戦だったのである。
 この近代化の急変革を強行するに当たって、国家は、江戸時代から続いた底辺の人間関係の「つながり」を利用した。個人の自由な意志が動きにくいように、「隣組」とか「村組織」や「町内会」等の人間関係を使い、国家体制が戦争状態を遂行しやすいように、がっちりと総動員体制に組み込んでいったのである。
 こういう不幸な歴史をもった日本近代の社会であるから、「つながり」復興の意見にはおいそれと乗れないということがある。しかし、確かに現代日本の人々は、孤独や孤立に追い立てられ切迫した情況になっている。これは緊急に対処すべき事態である。この「個人」と「つながり」との関わりを、どのような間合いで考察すべきなのであろうか。
 自由や独立を価値とする近代の都市的生活には、孤立する人間関係は必然である。ここに「つながり」を入れることは、時代に逆行するようにも見える。この課題と切り結ぶために、親鸞聖人の信念を手がかりにして考察してみよう。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異鈔』)という信念は、人間が独立できる根拠の発見ではないか。「心を弘誓の仏地に樹て」(『教行信証』)るなら、独立して安心して生きられるからである。
 そして、その立脚地は十方衆生に呼びかける「弘誓」であるから、真に連帯できる人間関係が開示されてくる。それが人間への深い信頼を生み出して、「御同朋・御同行」として、真に「つながり」を生きられる道となる。ここに独立しつつ連帯するという、真実の「僧伽」への視座が開けるのだと思う。

筆者紹介

ほんだ ひろゆき
1938年生まれ。1966年、大谷大学大学院博士課程満期退学。1986年より真宗大谷派本龍寺(東京都)住職。2001年より「親鸞仏教センター」所長。2012年、真宗大谷派「講師」。『名古屋御坊』にて、本願文に尋ねる連載「悲願の鉱脈を尋ねて」を執筆中(*今号は休載)。

御遠忌記念講演会

親鸞聖人なくして、今を行き切れるのか?時代の声に耳を傾けたい。
髙村薫氏(作家)×玉光順正氏(兵庫県・光明寺住職)
シンポジウム「東日本大震災から問われる私」
4月26日(木)18:00~20:30 東別院ホール

亀井鑛氏(元『名古屋御坊』編集委員)×高橋源一郎氏(作家)×本多弘之氏(「親鸞仏教センター」所長)
三人が語り合う「親鸞聖人に学ぶ御遠忌“座談会”」
4月30日(土)17:00~19:00 名古屋別院本堂

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第7回(2016年4・5月号)

真宗同朋会運動五十年の“あゆみと展望”に目を向けるとき、親鸞聖人の教えに集うた人びとが「ともに生きる─いのちのつながり─」の中で、形成してきた念仏の僧伽なしには語れない。そんな聞法者の交わりの中で、私たちはどのような御遠忌にするべきか。本コラムの最終回は、各部を統括する藤原正雄本部長に率直なお言葉をいただいた。

慙愧からの「ともに生きる―いのちのつながり―」

 真宗大谷派名古屋教区・名古屋別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要にあたり二年数カ月の準備を終えていよいよ厳修の運びとなりました。五百名を超えるスタッフを中心に五十年に一度の法要が無事にお迎えできることは、大変喜ばしいことであります。
 五年前にお迎えをした本山の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の折には、法要を目前にした三月十一日に東日本大震災が発生し、混乱の中にありながらも第一期法要が「被災者支援のつどい」としてお勤まりになり、いのちの大切さと無常性を痛感し、被災者の方々に思いを馳せました。
 今回の教区・別院御遠忌でも震災からの課題に向き合い、決して忘れないように追悼法要やシンポジウムを企画し、自分自身の生き方を深く考えるご縁にしてまいります。
 思い起こせば一九六一(昭和三十六)年の親鸞聖人七百回御遠忌以来五十年あまり、真宗大谷派では、「家の宗教から個の自覚の宗教へ」のスローガンのもと信仰運動「真宗同朋会運動」を展開してきました。
 この節目にあたり五十年の反省と八百回忌に向けた展望を生み出す御遠忌法要でなければなりません。特に名古屋別院は、一教区一別院という好条件や、真宗門徒をはじめ、周りの地域の方々にも支えられ三百年以上の歴史を培ってきました。
 ところが、御多分に漏れず現代社会の動向は、寺院や別院にも逆風の観があります。企業による葬儀への介入、法事への僧侶の派遣など、とどまることがありません。さらには、核家族化による宗教離れ、無関心化、このままでは八百回忌の法要を無事にお勤めすることさえままならないかもしれません。
 五十年来の信仰運動は、未来を切り開き、明るくするものであったはずです。私たち一人ひとりが、今「親鸞聖人の教えを現代社会に明らかにする」(御遠忌理念)ことをいちはやくなさねばならないでしょう。深く自覚をもよおし、慙愧の中から湧き上がる世界こそ本当のサンガであります。
 サンガの教区・別院を生み出すためには、往生安楽国を願う念仏者の先頭に立って歩む決意を一人ひとりが確認せねばなりません。
    御遠忌委員会本部長/第13組 西源寺住職  藤原 正雄

ともに生きる-いのちのつながり-死者が生きる場所(2016年3月号)


テレビ、ラジオ、新聞等、色々なメディアから独自の視点で言葉を発信する高橋源一郎氏。著作でさらりと親鸞の名を出すなど、その言葉にも親しむ。
名古屋での宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の記念講演会「親鸞聖人に学ぶ 御遠忌“座談会”」(4月30日開催)にもお越しいただく高橋氏には、御遠忌テーマ「ともに生きる―いのちのつながり─」という命題は、亡き者との邂逅と、そして共生に発展したのだろうか。それは、自らに自らを生み出した父を想い、自らの子に自らを想う、現在に未来を見る歴史的視線とも言える。いま、ここに生きる“歴史的”自分への眼差しではないか。
現代社会のうちにありながら、真に我が身に向きあうことを、仏さまとともに生きるというのかもしれない。

 

 わたしの父方の実家は大阪・豊中にあった。祖父はわたしが一歳のときに亡くなり、実家では勝ち気な祖母が離婚して戻ってきた伯母たちと住んでいた。実家には、勝手に入ってはならない部屋があって、そこはいつも窓が閉め切られていて暗かった。禁止されれば、入りたくなり、だから、幼いわたしは、実家に行くと、誰もいないのを確かめては、その部屋に入った。
 部屋には大きな仏壇があり、それから写真が何枚かかけてあった。セピア色に翳った古い写真の中には、わたしの知らない人たちがいた。祖父、そして、戦死した伯父たちであった。ふたりの伯父は兵士の姿をしていて、まだ若く、そしてその若い姿のまま、じっとこちらを見つめていた。そこは死者のいる場所で、どんよりとした空気が漂い、微かに香の匂いのようなものもしたように思う。やがて、わたしはその部屋に興味を失った。死者は遠く、わたしには関係がないように思えたのだ。
 その家で、祖母が亡くなり、追いかけるように二人の伯母たちも亡くなった。継ぐ者もなく、かつ正月に親戚で賑わった実家は取り壊された。そして、いまはもう、わたしの父も母もすでにこの世にはいないのである。死者たちは遠くに去り、やがて思い出すこともほとんどなくなった。
 もしかしたら、きっかけは、あのとき、洗面所で、当時まだ二歳だった長男の歯を磨かせていたときなのかもしれない。目の前の鏡に、亡くなった父が映っていたのである。恐怖のあまり声をあげそうになったわたしは、すぐに、それが、わたし自身であることに気づき、苦笑した。なんてことだ。亡霊なんて存在しないのに。目の前に、父そっくりのわたしがいる。もし、それが父なら、鏡の中で歯を磨かせてもらっている、幼い男の子はわたしなのではないか。そう感じた瞬間、ほんとうにその瞬間、自分でも制御できない大きな感情のようなものがわたしの内側から沸き上がった。死んでしまったはずの父が、いまそこにいて、父の感情が触れたような気がしたからだ。半世紀以上も前に、「その場所」で、父が、幼い子どもであるわたしに持った感情が、わたしをひたし、それから、わたしを押し流した。
 死者と出会った。あるいは、死者が甦った。そんな風にわたしは感じた。違う。ほんとうはもっと別の言い方があるのかもしれない。人間は死んで、誰かの記憶の中で生きつづける。そうなのかもしれない。いや、正しい言い方は他にあるのだろう。ほんとうは、わたしたちは知っているのだ。どこかに死者は生きていて、生きている彼らと再会することができることを。
 死者もまた生きている。わたしたち生者とは異なったやり方で。そして、わたしたちが心を開きさえすれば、会いに来てくれるのである。どんなときにでも。

筆者紹介

たかはし げんいちろう
1951年、広島県生まれ。1981年、『さよなら、ギャングたち』で作家デビュー。第1回三島由紀夫賞(『優雅で感傷的な日本野球』1988年)など受賞。著書に『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』ほか多数。文筆活動とともに明治学院大学で教授をつとめるほか、様々な分野で活躍し、その発言が注目されている。


御遠忌記念講演会 親鸞聖人に学ぶ御遠忌“座談会”

●4月30日(土)午後5時~7時 ●名古屋別院本堂 ●要事前申し込み 聴講無料ですが、整理券を配布します。

 親鸞聖人に深く学ばれる本多弘之氏、亀井鑛氏に加え、現代社会に鋭い視線を向け、親鸞聖人の言葉にも親しまれる作家の高橋源一郎氏を招いて行う「公開座談会」。「ともに生きる―いのちのつながり―」をテーマに、いま、ここに、このように生きる私自身をともに考えます。
●本堂での「御遠忌〝座談会〟」の後、三氏を囲んでさらに学びを深める「座談会」を催します。参加ご希望の方は事前にお申し込みください。
*定員は五十名 参加費一人 千円(軽食あり)

特集 「親鸞聖人と尾張門徒」展の開催に向けて(2016年3月号)

4月22日~5月1日 10時~17時(※4月27日は16時まで、5月1日は15時まで)
この度、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が当別院で勤修されるのに際し、名古屋教務所議事堂にて「親鸞聖人と尾張門徒―その信仰のすがた―」展を開催します。この展示会は、主に尾張に伝えられる真宗の法宝物を通じて、親鸞聖人の生涯と教えをたずね、この地域に真宗が根付いていった過程を明らかにすることを願いとしています。現在、実行委員として同朋大学の安藤弥氏にもご参加いただき、さらに同朋大学仏教文化研究所のご協力も賜りつつ準備が進められているところですが、今特集ではその概略を説明し、展示会のご案内といたします。
展示構成(予定)
第一章 親鸞聖人の生涯と教え
 第一節 親鸞聖人の生涯 (展示数 一〇点)
 第二節 親鸞聖人の教え (展示数 一〇点)
第二章 中世尾張の真宗
 第一節 初期真宗の法宝物 (展示数 五点)
 第二節 蓮如上人以降の法宝物 (展示数 一八点)
第三章 尾張門徒の信仰文化
 第一節 名古屋御坊の創建 (展示数 一〇点)
 第二節 お講の展開 (展示数 九点)
 第三節 お内仏の流布 (展示数 八点)

第一章 親鸞聖人の生涯と教え


親鸞聖人御影(絹本著色)
〈半田市・無量壽寺蔵〉
 最初に、親鸞聖人のご生涯を偲び、念仏の教えに直に触れることのできる法宝物を展示します。具体的には聖人の御影や御木像、御絵伝などが展示されます。とくにここで展示される親鸞聖人御影は、文明七(一四七五)年に本願寺第八代の蓮如上人より下付された「左上の御影」であり、おそらく名古屋教区内の聖人御影としては最古のものです。「左上の御影」とは聖人の念珠を持つ手のうち、左手が上になっている御影のことで、この時期に下付されたもののみに見られる特徴と言われています。
皇太子聖徳奉讃断簡(紙本墨書)〈一宮市・蓮開寺蔵〉 四十八願文抜書断簡(紙本墨書)〈犬山市・立圓寺蔵〉
 また、親鸞聖人が真実の教とされた『仏説無量寿経』に説かれる四十八願文のうち、第二十願と第二十二願前半部を抜書きした断簡や、聖徳太子を讃嘆した『皇太子聖徳奉讃』第二首の断簡も展示されます。これらは聖人自らのご真筆であり大変貴重なものです。この機会にぜひご覧ください。
 さらに、尾張とはゆかりがありませんが、文明五年に開版印刷された『正信偈』『三帖和讃』を、大谷大学博物館より出展いただきます。『正信偈』は親鸞聖人の主著『教行信証』「行巻」末尾に所収される偈文で、同じく聖人撰述の『三帖和讃』とともに、蓮如上人によって朝夕の勤行に用いられるようになりました。この他にも聖人撰述の聖教を書写した掛軸や、伝記の写本・版本などが展示されます。

第二章 中世尾張の真宗


方便法身尊像(絹地著色)
〈稲沢市・浄福寺蔵〉
※順如上人下付と考えら
れます。
 次に第二章では、尾張に根付いていった中世真宗の姿をうかがうことのできる法宝物を展示していきます。すでに親鸞聖人在世時から、門弟が道場などで寄合念仏の教えに接していましたが、これは尾張にも広がっていきました。その寄合の場にはご本尊が掛けられ、初期の段階では門流ごとに独自の様式でありました。それが長禄元(一四五七)年の、蓮如上人の本願寺留守職継職によって形態が統一されていきます。
金泥十字名号(絹地著色)〈新潟県佐渡市・本龍寺蔵〉 同裏書
 展示でもその点を留意いたしますが、その中で新潟県佐渡市・本龍寺の十字名号に注目いただきたいと思います。これは蓮如上人継職当初の「無碍光本尊」で、そもそもは寛正五(一四六四)年に「尾張国羽栗郡河野道場」のご本尊として下付されたものです。河野道場というのは、現在の一宮市北部や岐阜県岐南町・笠松町周辺の有力門徒団であった河野門徒の道場という意味で、その河野門徒の一部が後に佐渡へ移住する際に、この名号もともに渡ったと考えられます。
 他にも、蓮如上人筆の六字名号や上人下付の絵像本尊、さらにその長男・順如上人や五男・実如上人(第九代)筆の六字名号、そしてその下付の絵像本尊などが展示されます。とくに順如上人のものは伝来数が極めて少なくとても重要です。また、蓮如上人が親鸞聖人の教えを分かりやすく伝えようと撰述された『御文』も展示されます。この『御文』も道場などで拝読するためのものであり、以後の歴代上人によって盛んに下付されていくのです。

第三章 尾張門徒の信仰文化


 最後の第三章では、近世以降の尾張門徒が、真宗の教えをどう受けとめてきたのかをたずねていきます。とくに真宗は地域と密接に結びつき、その土地に浸み込んだ信仰文化として「土徳」という言葉を生み出してきました。この尾張の「土徳」を三節に分けて追います。
 「御坊さん」と親しまれる名古屋別院は、元禄三(一六九〇)年の、袋町泉龍寺を名古屋御坊とするという、公許を始まりとします。しかし狭小のため、古渡城址の寄進を受けて伽藍が建立され、同一五年に本堂の完成をみます。その後、文化二(一八〇五)年から文政六(一八二三)年にかけて大改築が行われ、その大伽藍は『尾張名所図会』にも描かれるところでした。第一節ではこの『尾張名所図会』の他、本堂法要記録の『御堂之日記』や開基一如上人(東本願寺第一六代)御影などが展示されます。
 さて、名古屋御坊の大伽藍を支えたのが、尾張門徒の信仰であったことは言うまでもありませんが、その基盤となったのが「お講」と「お内仏」でした。尾張門徒は中世念仏道場での寄合をもとに講組織を展開し、相互扶助を生み出しつつ奉仕の精神も形成してきました。第二節では実際にお講で用いられてきた御影や御書、さらには本山奉仕の道具なども展示されます。
 また近世以降、道場が寺院化していく過程で門徒宅でもご本尊を安置し、生活の中で念仏をいただくようになります。これがお内仏に他なりませんが、第三節ではその流布を示す史料を始め、そこで用いられた勤行本や『御文』などが並べられます。平仮名書の『正信偈』などはとても興味深いものです(本紙6面「教化センター通信」に写真掲載)。
 
編集/御遠忌事務局「行事部」委員、名古屋教区教化センター研究員 小島 智
御遠忌期間中の4月27日16時より「法宝物に学ぶ座談会」(定員30名)が開催されます。(要事前申込み)
行事部(名古屋別院教化事業部)℡052-331-9578

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第6回

御遠忌行事部「伝道」パートが企画している同朋会とは一体どのような「場」であろうか。今回は御遠忌委員会発足以前から、教区の教化委員として“同朋会”に向き合う植田さんにお話をうかがった。

声があふれる御遠忌を

別院で行われたお待ち受け大会(2015年3月28日)でも同朋会が開かれた
 一年半前、行事部「伝道」パートの会議が初めて開かれたとき、委員の皆様方と率直な思いを交わさせていただいたことが、すべての始まりでした。そこで確かめられたのは、御遠忌が単なる一時の盛り上がりに終わるものではなく、念仏の先輩方の歴史を受け継ぎ、後に続くいのちに手渡していく場であるということであったように思います。そこで、ただ新しい、物珍しいことだけを企画するのではなく、お寺の原点、聞法の根本に立ち帰ることを大切にしながら、話し合いを重ねてまいりました。
 そこで一つの手掛かりとなったのが、蓮如上人が報恩講に際しての『御文』でおっしゃられた、「信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」(『真宗聖典』七七七頁)という御教えです。御法要での聞法や日々の生活を御同行と共に確かめなおす場、現代の言葉でいうところの「同朋会」を、この御遠忌においても開かせていただきたいという願いのもと、「御遠忌同朋会」(参加者募集中。詳細はお問い合わせください)が実現されることとなりました。ちょうど名古屋教区では、教化委員会による「伝道スタッフ養成講座」において、聞法生活を確かめあう場を開き、その中心となってくださる人の育成に取り組んできたところでもあり、その受講者の方々がスタッフとして、さまざまな同朋会の形を模索してくださっているところです。
 また、このたび当部門において企画させていただいた、記念講演会、展示会、演劇会はどれもが一方的に発信するだけではなく、それぞれが、関わった者を中心として、そこから受け止められた教えを御同行と確かめ合う「座談会」を持たせていただく内容となっております。
 「ともに生きる」ことは、ともに語り、お互いが学び学ばれあうことだといただいております。その原点に立ち帰り、これからの聞法生活に弾みをつけてくださるような素敵な御遠忌が勤まりますことを、御同行とご一緒に楽しみにお待ち受けしております。
    御遠忌「行事部」委員/第7組 阿弥陀寺住職  植田 智行
・お待ち受け期間、御遠忌法要期日の研修 ・イベント、展示会などの企画・運営 ・「子ども報恩講」厳修 ・記念出版 など

ともに生きる-いのちのつながり-背き違う我の自覚(2016年2月号)


「信心とは生き方ということ」。その生き方とは、自分がゼロになる道。
それは「ともに」のところに開かれ続ける。
力強く、厳しく自らに問いかける亀井氏は、真宗大谷派が“いのちをかけて”進めた「真宗同朋会運動」によって生まれ出た人だ。人間の母から産まれた後、先人の呼びかけ、よきひととの交わりの中に生まれ出たのだ。
それは、この現代社会にありながら、本当に人間が生きるとはどういうことかを求め続ける魂のことだ。
今回の御遠忌でも、その魂に聞いていきたい。

 


いまも亀井氏が毎月通う﹁珉光院同朋会﹂を、亀井氏自身が取材した一枚(真宗大谷派発行『同朋』1967年月号より転載)。亀井氏は『名古屋御坊』や真宗大谷派の出版物などの編集委員として、各地の同朋会で様々な人と出あってきた。
 今春の御遠忌法会が、「ともに生きる─いのちのつながり─」の命題でつとまります。その心を、宗祖親鸞は「ともの同朋」とも「御同朋御同行」ともいわれました。これが七百年後に私たちの同朋会運動となって蘇り具体化し、この私も仏縁にめぐまれました。
 真宗でいう他力の信心、信心とは生き方ということ。他力とは、自分本位の偏り執われをひるがえしすてるところにひらかれる、自と他が一つの生き方。自他一如の世界に出させていただくこと。先覚のお言葉に、「自他一如とは自分と他人と五分五分で歩みよる話でない。徹底して自分がゼロになる道だ。西洋風な民主的互譲とはちがう」と聞き、感銘しました。蓮如上人も「身をすてて、平坐にて、みなと同坐する」(『蓮如上人御一代記聞書』第三十九条)といわれています。我が無になる。それを自分自身を通し、生活の事実の上に実行確認していくのが、五十五年来の同朋会運動でした。
 同朋精神とは、我が身一人をまな板にのせて、実験検証する。現実生活の体験的事実に足を置いて確認していく。その二つ抜きでは生命が通いません。話が抽象化観念化すれば、その運動活動は不健康で衰弱していきます。近くは、家庭の内での夫婦、親子、兄弟、近所付き合い、職場でのタテヨコの人間関係から、広くは国と国、民族と民族、宗教と宗教の対立と協和の課題まで、この同朋精神は広がり、つながってやまないのでしょう。みんな、一つの道理、法則で照らされ、つつまれます。
 わが家の日常で、夫の私は連れ合いに、また子どもに対し父として、あるいは外で自営していた会社では従業員に向かい社長として、常に自分優先、自分主導であることをよしとして、当然の顔をして臨みます。お寺の集会でも、「我は古参。我こそ知れり」のたかぶりが、時に鼻もちならない悪臭を放ちます。「自分が正しい、自分は賢い、自分は善人。だから愚かでまちがっているのは向こう、お前だ」のところに立ってうそぶき、相手他者を責め裁きます。いつでも気付くのは後から、気付いてもなかなかこの頭、下がりません。でも気付かされれば、おのずから向きが転ぜられています。聞法五十五年、今もその毎日です。
真宗本廟での親鸞聖人700回御遠忌法要に先立つ1961年3月に開かれた「同朋壮年全国大会」。全国からおよそ200人があつまった一泊二日の大会では、お寺や信仰の問題にとどまらず、夫婦、教育、社会事件、職業、モラルなど、極めて現実的な課題が提起された。この大会を契機として、「同朋会運動」が全国に展開されていったという。亀井氏は6列目左から7人目。
 「ともに」のところには限りなく自分がゼロ化されていくのです。それに徹し切れない痛み、悲しみに立つ歩み。呼びかけられ、願いかけられても、それに背き違いずめの私に直面せずにいられない。つまずき、よろめき、くずおれ、うずくまりがちな私があるばかりです。まことに先覚のお言葉、「どこまでも現実の前に裁かれ、敗れ果てていく、もっとも謙譲な歩み」のみが、賦与された一本道なのだ、ということです。
 いみじくも本紙のこの欄が、「輪転のうちにあり乍ら」とありますが、「人間は生きる限り流転だ。だが、流されるのでない、流れるのだ」と先覚から示されました。それこそが他力の信、ともに生きんとする、私一人のあり方だと思わされます。
 思えば宗祖親鸞七百回の大法会をきっかけに発足した同朋会運動が、名古屋での七百五十回の大法会を迎える今年に際会し、あらためてこの生き方(信心)一つを、われらが生きるよるべなる哉と再確認させられます。

亀井氏、作家の高橋源一郎氏、本多弘之氏(本紙「悲願の鉱脈を尋ねて」筆者)が語り合う「公開座談会」が御遠忌記念行事として行われます。名古屋別院本堂にて4月30日(金・祝)。(本紙2面に詳細)

筆者紹介

かめい ひろし
1929年、愛知県生まれ。旧制愛知県商業学校卒業。会社役員をつとめながら、1950年代より真宗大谷派珉光院(千種区)同朋会で聞法を始める。これまで名古屋別院発行『名古屋御坊』新聞や真宗大谷派発行『同朋新聞』の編集委員のほか、NHK教育テレビ「こころの時代」の司会者としても活躍。

特集 参加者募集中なごやの御遠忌「同朋会」(2016年2月号)


 名古屋教区・名古屋別院 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要〈2016年4月22日~24日、26日?5月1日〉では、御遠忌テーマ「ともに生きる?いのちのつながり?」のもと、本堂での法要や講演会以外にも、地域とともにつくりだす「別院てづくり縁市」や、東別院会館を会場に現代社会の諸問題に向き合う「東別院広場」など様々な場が開かれる。そこには宗祖親鸞聖人の教えにご縁をいただいた様々な人が集い語らいの場となる。  教区の方々と計画を進めるそれらの記念行事において見出されてきた一つのキーワードが「同朋会」。御遠忌行事として企画される四つの“同朋会”から、いま、ともに親鸞聖人に学ぶということを考えてみたい。
同朋会とは・・・
 真宗大谷派は1961(昭和36)年にお迎えした宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要をきっかけとして、「真宗同朋会運動」を推進してきた。その具体化は、各お寺に聖人の教えを聞く場を持つことに他ならない。宗祖親鸞聖人の教えを依り処(帰依処)として、この“わたし”を見つめ、問い続けること。それを、一人で行うのではなく御同朋御同行(教えをともに歩むもの)と〝とも〟になしていくことである。  「同朋会」では、集ったあらゆる人々との出あいを通して、一人の人間として学びあうことが願われている。それは、世間での肩書にとらわれずに人と人とが水平につながり合える場である。

同朋会1 御遠忌お待ち受け同朋会/御遠忌同朋会

 境内の掃除、仏具のおみがきなど、御遠忌準備の奉仕を通して学ぶ「御遠忌お待ち受け同朋会」。御遠忌法要に参拝し、法話を聴聞し、ともに語りあう「御遠忌同朋会」。 お寺で過ごし、自分を見つめる。
◆御遠忌お待ち受け同朋会
期日 第1回 3月7日(月)、第2回 3月8日(火)、第3回 3月24日(木)、第4回 4月11日(月)
時間 午前10時~午後4時頃(受付:9時~ 名古屋教務所 議事堂)
定員 各回100名
◆御遠忌同朋会
期日 第5回 4月27日(水)、第6回 4月28日(木)、第7回 4月29日(金・祝)、第8回 4月30日(土)
時間 午前9時~午後3時頃(受付:8時30分~)
定員 各回50名 *各回実施10日前までにお申込みください。
持ち物 念珠・勤行本・筆記具/お持ちの方:肩衣・同朋手帳
参加費 1000円(昼食代含む) ※当日受付にてお支払ください。

同朋会2 法宝物に学ぶ座談会―尾張門徒の信仰をたずねて―

  私たちの先を歩まれた“尾張の真宗門徒” が何を受け継ぎ、何を伝えてくださったのか、法宝物に学び確かめる。
日 時 4月27日(水) 午後4時~7時
参加費 無料 (展示会図録進呈)※要事前申込(定員30名)
会 場 名古屋別院 本堂下広間
●スケジュール
午後3時30分 受付
午後4時 講義 ・安藤弥 同朋大学准教授 ・小島智 教区教化センター研究員
午後5時15分 座談会
午後6時40分 まとめの講義
同時開催 ◇展示会
「親鸞聖人と尾張門徒─その信仰のすがた─」
期間 4月22日(金)~5月1日(日)午前10時 ~ 午後5時 (4月27日は午後4時まで、5月1日は午後3時まで)
入場料 無料
会場 名古屋教務所1階 議事堂
◇ギャラリートーク
展示会場でスタッフが法宝物の説明をします。
日時 4月22日(金) 午前10時~【担当】安藤 弥、4月26日(火) 午後4時 ~【担当】小島 智、4月30日(土) 午後0時30分 ~【担当】井川 芳治
参加費 無料
会場 名古屋教務所1階 議事堂

同朋会3 [演劇]親鸞・恵信尼 結婚披露宴 ―750年の時を超えて―

 親鸞聖人・恵信尼夫妻がもし現代風に結婚披露宴を開いたら…。聖人にまつわる様々な登場人物の行動が、その生涯の歩みが私たちに問いかける、「劇団BOU´S」による結婚披露宴の演劇。また、第2部「二次会パーティー」で楽しく聖人に迫る。
日時  4月29日(金・祝) 第1部 午後4時30分~5時30分、第2部 午後6時~8時
会場 東別院ホール(東別院会館3階)
参加費 第1部 無料、第2部 1000円(食事・アルコール有)*要事前申込 *第1部・2部ともに整理券を配布します。

●スケジュール
第1部 演劇
午後4時/開場、受付開始 午後4時30分/開演
演劇「親鸞・恵信尼 結婚披露宴─750年の時を超えて─」
午後5時30分/第1部 終演
 休憩 30分
第2部 二次会パーティー「飲んで、食べて、語らって」
午後6時/二次会パーティー開会
午後8時/第2部 終演

同朋会4 御遠忌記念講演会 親鸞聖人に学ぶ御遠忌〝座談会〟

本多弘之 高橋源一郎 亀井鑛
 親鸞聖人に深く学ばれる本多弘之氏、亀井鑛氏に加え、現代社会に鋭い視線を向け、親鸞聖人の言葉にも親しまれる作家の高橋源一郎氏を招いて行う「公開座談会」。「ともに生きる─いのちのつながり─」をテーマに、いま、ここに、このように生きる私自身をともに考える。

日時 4月30日(土) 午後5時~7時
会場 名古屋別院 本堂
聴講料 無料 *要事前申込 整理券を配布します。

●スケジュール
午後4時30分/開場、受付開始
午後5時/開会、挨拶
午後5時10分/プロフィル紹介
午後5時15分/三氏発言(各10分)
午後5時45分/三氏による座談会
午後7時/閉会
◆御遠忌〝座談会〟第2部
本堂での座談会の後、三氏を囲んで、さらに学びを深める「座談会」を開きます。
時間 午後7時30分~
会場 本堂下広間 定員50人
参加費 1000円(軽食あり)*要事前申込

申込先

御遠忌「行事部」Tel 052-331-9578 fax 052-331-9579

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第5回

現在、御遠忌記念事業として進められている対面所改修工事や参道及び山門前整備工事等も大詰めを迎え、二月末をもって完了する予定である。このたび、御遠忌「事業部」副部長として事業計画当初から携わっていただいた水谷玄氏に寄稿いただいた。

境内整備に込める願い

対面所2階完成予想
 尾張名古屋には戦災の後コンクリートで旧来の形に再建された巨大建造物が二つある。一つは名古屋城天守閣。もう一つが東別院こと名古屋別院本堂である。
 昨今、その名古屋城天守閣の維持管理に関して、現状のままコンクリートの補強等で維持していくか、木造での全面建て替えを敢行するかの議論が盛んである。約五十年前、名古屋城と同時期にコンクリートで再建された東別院本堂に関しても同様の議論は避けられない。
 現在、東別院では宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌記念事業として、再建以来初の大規模な改修工事が行われており、本堂においても内外の塗装や内陣の洗浄等が行われ、御遠忌を迎える準備が整いつつある。しかし、未来に向けどのような形で本堂を護持し次世代に相続していくか、そして別院が社会の中でどのような役割を担っていくべきなのか、という議論はこれからが本番であり、今回の御遠忌がその第一歩となろう。
 本堂隣の対面所においては二階全てを椅子席とし、エレベーターも新設。一階事務所も全面的にリニューアルされ開放的な明るい事務空間となる予定である。この総合的な改修により対面所が広く社会とつながる場所として機能していくことが期待される。
 また参詣者駐車場の新設、東門及び参道の整備等も行われており、それぞれが今後の東別院の方向性を左右する重要な整備事業といえよう。
 今回、御遠忌事業部の一員として「ともに生きる─いのちのつながり─」という御遠忌テーマのもと境内整備計画に携わり、御遠忌がゴールではなくスタートとなることを目指し議論を重ねてきた。現在も様々な境内整備が進行中だが、この記念事業が一体何のための、誰のためのものなのか、本来の目的が曖昧にならないよう、しっかり自戒していきたい。
 最後に、今回の御遠忌を機に東別院と教区寺院門徒並びに地域住民との距離がますます近くなることを切に願うことである。
 御遠忌事務局「事業部」副部長/第1組 崇覺寺住職  水谷 玄
記念事業 ①本堂内修復工事 ②諸殿外壁塗装工事 ③対面所改修工事(椅子席化) ④参道及び山門前整備工事

ともに生きる─いのちのつながり─(2016年1月号)

 


ナゴヤごえんきキャラクターの「蓮ちゃん」(左の写真:左)「千鶴ちゃん」(同:中)「オケゾッくん」(同:右)のぬいぐるみは、名古屋教区・西光寺(あま市)住職の渡辺康尊さんの手づくり。教区児童教化連盟が力を入れて取り組む人形劇の大道具、小道具も、渡辺さんらメンバーで制作している。

    
     
 年が改まり、いよいよ名古屋教区、名古屋別院の御遠忌法要が近づいてきた。先月号の『名古屋御坊』において、安藤弥氏(同朋大学准教授)より、「歴史上の「御遠忌」には必ずその時その時の「教団」の課題が浮かび上がることになった」とのご指摘をいただいた。「教団」の課題ということだが、それは、現代社会を生きる私たちの課題とも言える。また、私たちが「御遠忌」をお迎えし、親鸞聖人の歩みに我が人生を問い尋ねる時、はじめて自らの現実の問題に向き合い、時代の課題を見出すことができるのではないか。
 昨今、社会は国際化が進み、情報が飛び交い、それぞれの価値観は多様化を極めている。五十年前の世相とは比ぶべくもなく、また親鸞聖人の生きられた八百年前においてをやである。しかし、一人一人がそれぞれの生活の中で抱える、その無数の現実問題に〝通底〟するものは何かと考えるとき、七百五十年前に閉じられた親鸞聖人のご一生の歩みがにわかに色彩を帯び、私にとっての呼びかけの声となってくる。無数の「現実問題」の底を流れる「根本問題」に耳を傾けてきた歴史こそが宗教であり、浄土の真宗であり、そして私たち一人一人の使命なのだ。
 「根本問題」は、決して聖教の言葉を学ぶだけで見出されるものではなく、一人一人の「現実問題」を通して触れ得ることができる。個人の家庭や地域、職場での人間関係、国政で取り沙汰される事柄、国際社会が直面する対立、いずれも人間の一つの「現実問題」に違いない。しかし、その解決が、自らをよしとする、自分都合の“正義”〝善〟を立てるあり方で求められるのであれば、その取り組みはすえとおらない。「現実問題」が一人一人の問題であるが故に、人間の力では決して解決し得ないと言える。
 その時、「現実問題」の行き詰まりの時、「根本問題」が自らの課題として問いかけられてくる。生活の一瞬一瞬に自分を押し立て、あまつさえ仏教を学ぶ聞法にいたるまで自らの〝善〟をすてることのできない我が身が知らされる。私たちは“善”に苦しみ“善”に迷ってきたのだ。
 その身において、いま私たちは親鸞聖人の御遠忌をお勤めする。我が身をごまかさず、居直らず、現実から遊離せず、学問沙汰に埋没せず、行く。それは、個人的な道ではない。〝よきひと〟との交わりの中に、人間の力を超えて歩み出される一歩が、私に「とも生きる─いのちのつながり─」を考えさせる。真宗門徒の面目ではないか。

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第4回

 御遠忌期間中は多くの方々で別院境内が埋め尽くされる。参拝される方々の「安全」「安心」が保たれ、それぞれが親鸞聖人の教えにふれるための“場づくり”に参拝部は取り組んでいる。
 今回は、“広く仏縁を”と願う参拝部の北畠忍氏にお話を伺った。

お参りの環境を整える

およそ50年前の名古屋別院親鸞聖人700回御遠忌法要でも多くの方が参拝された。
 年も改まり、法要まであと百日を切りました。いよいよ御遠忌の行事内容も具体的となり、スケジュールもまとまり、参拝部案内班としては、それに合わせた法要当日の案内所運営に向けての調整が進められます。
 参拝部は、御遠忌法要参拝全般に携わる部署です。仮設スロープ、テントなどの設備から、団体参拝の調整、当日の案内、法要全体の記録など、それぞれ設備班・法要参拝班・案内班・記録班の四班に分かれて、当日法要に来られた方が安全に安心してお参りができるように計画し準備しています。
 法要にはたくさんの方がお参りになります。その方々をお迎えするには、より一層大勢の方の協力が必要です。設備機材、バス、弁当、警備、救護等々、さまざまな業種にわたる会社や団体と相談・依頼し、一緒にお参りの環境を整えていきます。
 「ともに生きる¦いのちのつながり¦」というテーマとともに、御遠忌の理念として「親鸞聖人の教えを現代社会に明らかにする¦仏さまとともに歩む世界へ あなたも¦」と、この法要に向けての願いが掲げられています。
 この二〇一六年の春、ここ名古屋の街中で、多くの方が一堂に会し、南無阿弥陀仏とお参りされるということは、大変なことであり、文字通り有り難いことだと思います。その有り難いことが、宗門内外のまた多くの方々の協力によって成されるならば、その出来事がまさに現代社会に明らかにされる親鸞聖人の教えの表現ではないでしょうか。
 この度のお参りが、次のお参りにつながり、さらに仏縁が広まり、深まるようにお手伝いできればと思っています。
 御遠忌参拝部委員 第26組圓盛寺住職 北畠 忍

参拝部の取り組み:●団体参拝説明会 ●自由参拝(御遠忌期間中) ●団体参拝椅子指定席 ●座席抽選会(3月中旬予定) ●(バス・保険・弁当・設備)業者選定 ●参拝記念品作成 ●御遠忌記念写真帳作成

「報恩講」と「御遠忌」の歴史に学ぶ(2015年12月号)


弘長2年(1262)の11月28日、親鸞聖人が亡くなられた。その死を機縁として営まれる「報恩講」。
本山でも、全国各地の別院やお寺でも、そして家庭のお内仏でもお勤めされる「毎年不闕の御仏事」である。
「御遠忌」は聖人三百回忌をそのはじめとし、五十年ごとに厳修されてきた。その違いは何か。
宗祖親鸞聖人の歩みに自らの人生を尋ねてきた真宗門徒は、変わり続ける人の世にありながら、毎年毎年、そして五十年ごとに、何を大切にし、相続してきたのだろうか。

 


 このたび、名古屋教区、名古屋別院の親鸞聖人七百五十回忌御遠忌法要をお迎えしていくにあたり、私たち真宗門徒において、「報恩講」とは何か、「御遠忌」とは何かということについて、その歴史に学び、確かめたい。
 蓮如上人がはじめられた「改悔批判」は、名古屋別院 報恩講にも伝統されている。批判者(師僧)が「批判」を申し述べ、改悔僧が手をつき、親鸞聖人の御影前に「改悔文」を述べる。
 このかたちは蓮如上人の時代そのままではないが、古風を伝え、他にないものと言われている。
 
 真宗門徒の一年は「報恩講」に始まり、「報恩講」に終わるといわれる。毎年とりおこなわれる真宗門徒の「報恩講」とは、宗祖親鸞聖人の御命日にあたり、私たち凡夫衆生を必ず救い、確かな人生を歩ませてくださる本尊阿弥陀如来の仏恩に報い、私たちにそうした浄土真宗の教えを顕らかにしてくださった宗祖の遺徳に謝する人びとがつどう法要(講)である。
 その歴史をたずねれば、最初は「親鸞」という一人の亡き人にゆかりのある人びとによる忌日法要に始まり、その営みに「報恩」の意義があることを確かめた覚如上人(親鸞聖人曾孫)によって三十三回忌を期に普遍的な真宗門徒の祖師忌とされた。それをさらに教団の中心法要とされ「報恩講」という名称を確立されたのが、数多の門徒とともに戦国時代を生きられた蓮如上人である。
 蓮如上人は「報恩講」の意義について、「往生浄土の信心獲得」が「報恩謝徳」の志であると説く(『御文』四帖目第八通)。そのために「わろき心中のとおりを改悔懺悔」することが大切といい、「ひとまねばかりに」参詣するだけの行為はよくないと厳しく問いかける(『御文』三帖目第十一通)。そこで儀式に門徒による改悔讃嘆(改悔批判)を取り入れ、さらに地域門徒集団による斎・非時(食事)の調進などについても重要な「報恩」の営みと位置付ける。『報恩講式』拝読とともに『正信偈』『和讃』の勤行を中心に置き、皆が主体性をもってお勤めし、一人ひとり「信心決定」していくのが「報恩講」とされたのである。
 「御遠忌」は、そうした毎年の「報恩講」を前提に、五十年ごとを基本に厳修されることになった法要である。五十年ごとであるから、門徒個人においては一生に一度のことであり、歴史的には真宗の教えを受け継いでいく課題を担う「教団」の問題である。
 「御遠忌」の歴史は、実は戦国時代末期の永禄四年(一五六一)親鸞聖人三百回忌に始まる。それ以前の執行は史料上、確かにならない。三百回忌は戦国期本願寺教団の一つの到達点を示すものとして盛大に執行されたが、そこでは、前々年の本願寺「門跡成」(寺院の最高格式「門跡」への勅許)をうけ、門跡寺院格の法会として特別な儀式内容・法衣装束が用いられた。具体的には読経中心の次第で行道儀式や法服・七条袈裟などが初めて導入され、しかしその一方で、改悔讃嘆は不執行というものであった。これらの歴史的意味は多面的に考察されるべきであるが、一つには明らかに「報恩謝徳」の意味と行為がおろそかになったことは否めない。果たして三百回忌の後、教団内部は混乱状況に陥り、改悔讃嘆の儀式再開によって立て直しがはかられたという歴史的経緯がある。
 その後、「御遠忌」は繰り返し営まれるようになったが、歴史上の「御遠忌」には必ずその時その時の「教団」の課題が浮かび上がることになった。七百回忌の際にはそれが教団紛争であり、同朋会運動であったと思われる。
 さて、このたびの七百五十回忌という機縁には何が問われ、どのような課題が浮かび上がってくる(いる)のであろうか。「御遠忌」を厳修してきた「教団」の正と負を併せ持つ歴史的課題をしっかりと受けとめ、その歴史的な積み重なりの上に今、私たちがいることを自覚する必要がある。そして、一人ひとりがあらためて宗祖親鸞聖人を憶念し、「御遠忌」をお迎えしていくことが大切なことと考える。

筆者紹介

あんどう わたる
一九七五年生まれ。真宗大谷派岡崎教区浄専寺候補衆徒。名古屋大学文学部卒業、大谷大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。現在、同朋大学准教授。専門は宗教史・真宗史。主な研究業績として『誰も書かなかった親鸞』『本願寺「報恩講」の歴史的研究』『教如と東西本願寺』など。

特集「沖縄」(2015年12月号)




 「お寺でなぜ“沖縄”なのか」。名古屋教区・別院の御遠忌お待ち受け講座「沖縄現地研修」(10月14日~16日)に他から、そしてスタッフの中でも出された問いだ。
 沖縄はその歴史において、時々の権力から支配され、利用され、差別されてきた。そのことは、色々な文化が混じりあった風景にも色濃い。そして、その悲しみはそこに住む人たちの身心にも刻み込まれているに違いない。それを知るとき、その島に現れる諸問題に現代社会の様々な問題、私たちの課題が滲み出ていると考え至ることである。
 個人個人の立場、都合、境遇を抱えて求める私の「平和」は千差万別で、その先にはいつも争いが避けられない。「真の平和」の希求は、人間的知見を超えた「宗教的課題」ではないか。親鸞聖人に学ぶからこそ、今だからこそ、沖縄の人々に出あい、その現実に触れ、自らにおいて考えていきたい。今号では、研修参加者に訪問地で学んだことを書いてもらった。

沖縄別院で学んだこと

 私がお預かりしているお寺は、私が生まれる以前から存在していた。したがって、私にとって、お寺が「ある」ことは当り前だった。だが、沖縄ではそうではなく、お寺は物心両面でつくり上げていくものであった。
 振り返ると、私はいつの間にか日常に埋没し、親鸞聖人の教えを聴聞し伝えることを疎かにしていた。それだけでなく、お寺の因習を無批判に踏襲し、現代の様々な問題から目を背けていた。お寺の体裁は整っていても、果たしてお預かりしている私に聖人の教えを聴く姿勢はあったか。
 相良晴美輪番は沖縄別院に赴任し、沖縄が経験した戦争を学ばなければならないという思いを抱いたとおっしゃっていた。その思いは、別院やお寺を中心として聖人の教えを伝え、戦争や米軍基地の問題を考えていこうとする意欲へとつながっている。現実の問題に向き合う時、そこにお寺は生まれるのかもしれない。
 沖縄別院やそのほか、沖縄で出あった人たちの言動や姿から、今の私のあり方でいいのかと問われるとともに、“つくり上げていく”お寺を目指していきたい、そんな意欲をいただいた。(小笠原 智秀)

ガマ

 沖縄で地上戦があったことは知っていたが、ガマ(自然洞穴)に住民が隠れていたことは、事前研修で知った。正直、鍾乳洞のようなものを予想していた。訪れたのは10月、気温は25度くらいまで上がった。ガマの中に入って15分。額に汗がにじむ。まっくらで。風が通らないし、狭い。屈まないと進めない場所はいくらでもあった。たった15分程度だったが、正直長居できるような場所ではないと感じた。
 チビチリガマは、集団自決があった場所であり、現在は“お墓”として立ち入り禁止となっている。今回は特別に中へ入れてもらった。戦時中、他所のガマ間との情報交換は当然できないので、ガマのリーダーによって対応が大きく異なったと説明があった。「鬼畜米英」。チビチリガマではこの言葉を強く言い聞かされていたため、米軍に捕まるより死を選んだと聞かされた。今回の研修によりつくづく教育の大切さを痛感するとともに、学びを奪われるということ、一人ひとりの声が失われていく“戦争”ということを考えさせられた。(鷲 朋和)

高江ヘリパッド建設反対座り込みにて

 「私たちは、非暴力の闘いをしています。ただ、未来のいのちのために、戦争の練習道具である訓練場、ヘリパッド建設から、山原の原生林をまもりたいんです」。そんな言葉から、話が始まったように記憶している。辺野古と違って、ここは海岸線から、内陸の山間部へ入った水源地帯、「やんばる」と呼ばれる沖縄本島の原生林である。米軍の海兵隊兵士はここへ、ヘリコプターを使って降下し、過酷なジャングルの中をナイフ一つで生き抜く。戦場を想定した、サバイバル訓練なのだという。沖縄は、日本でありながら、日本人が手も、口も出すことを許されない、間違いなく米軍基地の島である。「唐ぬ世から、大和ぬ世、大和ぬ世から、アメリカ世、アメリカ世から、大和ぬ世、ひるまさ変わゆる(奇妙に変わる)、此のウチナー(沖縄)」(『ドゥチュイムニイ』)。人が時代を超えて一つの人格として存在しようとするウチナンチューの確かなアイデンティティーをのせ、三線の音が静かに響いた。(伊藤 修)

ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」で思う

 愛楽園は、1938年11月に開園したハンセン病療養施設である。
 学芸員さんは「戦後アメリカの統治においても、ハンセン病者の強制隔離政策は本土と同じように維持されていった。その頃には薬が開発され病気への理解も進み、特別な法律や施設を設けないことが世界の趨勢となっていた。病者の開放政策に移行しようという時期もあったが、あえて住民感情を刺激してまでこの問題に拘ることが、沖縄統治や基地の維持の上で不都合であったため放っておかれた」と語ってくださった。
 現在は福島の被災家族を一時保養に毎年招いているそうだ。子どもが遊びに来たり、客人と一緒に食事をしたりという日常のことが、ハンセン病療養所では長い間決して当たり前ではなかった。
 状況がそれほど変わってさえも続けられた隔離を考えると、我々は他者の同調を見越して差別を生んでゆくのだと実感する。社会の問題、個人の問題と分けて考えることはできない。
自分にとって何が不都合で、何が当たり前であるのか。この強制的に捨てられてきた日常は、自分とは縁遠いことであろうか。縁遠いと考えるとき、そう考える訳をこそ考えてゆきたい。(神戸 誓真)


編集協力/御遠忌行事部「チャンプルー寺」チーム(教区教化委員会「解放運動推進要員研修」スタッフ)

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第3回

御遠忌テーマを考える研修会や行事を企画している「行事部」では、これまで教区教化委員会都市教化部門で向き合ってきた「震災」の課題にも、御遠忌企画として取り組んでいる。東日本大震災当初より、東北に足を運んでいる大河内真慈さんにご寄稿いただいた。

震災から問われ続けるわれら

 本山において宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要をいよいよと待ち受けていた二〇一一年三月一一日、三陸沖を震源として未曾有の大震災が発災した。日本中を覆った言い知れぬ不安感の中で、本山では多くの催事を中止し、第一期法要を「被災者支援のつどい」(三月一九日~二八日)と改め、親鸞聖人の御真影に向き合い、東北に思いを馳せた。
 その年四月、ひしゃげた車や家屋が山と折り重なり、死臭と潮の匂いが漂う現地に立った私は、大切な人との別れを受容することができないまま、ただその日一日を生き延びることで精一杯の人々を見た。その人々と、宗祖が「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」と見出した群萌の生きざまとが、私の中で重なった。なぜなら大切な何かを失った彼らはその現実にとどまらず、悲しみの底から立ち上がり、生まれた意味を、証しを、帰るべき故郷を、共感し合える世界を、どこまでも求め続けていたからだ。(右写真 津波に流された閖上(宮城県名取市)の町を高台から望む)
 涙ながらに私に語られた亡き人の生き様や、未来へつなげようと今を生きる背中、「待ってるからね」という素朴なことば、別れ際に伝わる手のぬくもりが、世間的価値に凝り固まった小さな私をやさしく溶かし、私が本当にほしかったものを教えてくれた。誰もが強く、誰もが弱く、誰もが必死で、誰もが一人ぼっちだけれど、人は本当は、こんなにもあたたかい。(左写真 仮設住宅で足湯活動をする筆者)
 これまで教区教化委員会都市教化部門にて現地研修を開催してきましたが、本年度は御遠忌事業の一環として、「行事部」東日本大震災班が主催します。みなさんと現地を訪ね、問題を共有し、ともに語り合うことのできる行事を下記のとおり企画しています。
 御遠忌委員会 行事部員 大河内 真慈

宗祖親鸞聖人750回御遠忌企画 「東日本大震災」行催事一覧

事前学習会
日時:2016年1月14日(木)午後3時~6時30分
会場:教務所1階議事堂
講師:酒井義一氏(東京教区・存明寺住職)
内容:講演・ワークショプ
現地研修会
日時:2016年2月4日(木)~5日(金)※6日(土)は有志で炊き出し実施
会場:東北別院、岩手県陸前高田市、福島県南相馬市、原町別院、新地町仮設住宅など(予定)
3.11勿忘のつどい ─語り直そう、あの時からのあゆみ─
日時:2016年3月11日(金)午後2時46分~7時30分
会場:名古屋別院本堂・鐘楼
内容:勿忘の鐘、追弔法要、関係各団体からの報告、座談会など
「東日本大震災」シンポジウム(仮)
日時:2016年4月26日(火)午後5時30分~8時30分(予定)
会場:東別院ホール
 
※「現地研修」に参加希望の方は「事前学習会」「3.11勿忘のつどい」にご参加願います。「現地研修」に応募されない方でも「事前学習会」「3.11勿忘のつどい」の行事には是非ご参加ください。
【問い合わせ】℡052‐331‐9578(御遠忌事務局「行事部」)

映像作家・今村彩子さんと考える「ともに生きる -いのちのつながり-」(2015年11月号)


写真1 名古屋在住の映像作家・今村彩子さんは生まれた時から耳が聞こえない。その今村さんの人生の転機となった作品が『珈琲とエンピツ』だ。同じように“聞こえない”太田辰郎さんがサーフィンショップを営みながら交わす人と人とのつながりを取材したその作品は、人は一人で生きるのではないということを改めて考えさせる。
 自分の身を本当に慈しみ、本当に生き切ることがどんなに難しいか。そしてどんなに願われていることか。願いながら成しがたい、やりきれない身を抱えながら、その私は、ともに生きあういのちのつながりにこそあるのだと教えられる。

 

今村さんと太田さんの写真『珈琲とエンピツ』で撮られた太田辰郎さんの、色々な人と関わる姿を見て、同じ“聞こえない者”として「衝撃的だった」と言われました。(写真 今村彩子さん(左)と太田辰郎さん(右))
 十九歳の時に初めて作った作品は、聾学校の紹介映像です。聞こえない人たちのイメージが壊れたという感想に、ああ、映像の力は強いんだなと思って、聞こえない人たちの色んな活動等を撮っていたんですが、それでも何か窮屈さを感じていました。聞こえないことを私自身が特別視していたんです。聞こえないことも色んな個性の中の一つだととらえれば、たいしたことではない。でも、その頃は、聞こえない私のことをどうしてわかってもらえないの、手をさしのべてほしいという感じでした。
 それが、太田さんは自分が聞こえないことをなんとも思っていませんでした。自分のことをかわいそうだと思ってないんです。
東日本大震災の被災地を取材した作品からも、考え方が変わったことがあったそうですね。
 震災から十一日後に被災地に行きました。警報が聞こえず亡くなった人たちもいて、命にかかわる情報に格差があってはいけないと、二年四ヶ月かけて取材しました。でも、全ての人に完全な情報提供は無理があります。それよりも、周りにどんな人たちが住んでいるか、あそこの人は目が不自由だとか、車イスの人がいるとか分かっていれば、どのように対応すべきかイメージできると思います。
情報伝達の工夫も大切ですが、結局は人と人とがつながっていないと伝わらないということですね。
 被災地を取材する私を取り上げてくれたケーブルテレビの番組のタイトルが「ともに生きる」で、最後のナレーションは「人は弱いところでつながっている」でした。例えば、私は地図を読むのが苦手、それで人に聞きます。そこでつながりができます。弱いところをたくさん持っている人は色んな人たちとつながることができるし、弱さを見せちゃった方が心の距離が近づきます。
 今つくっている映画は、自転車で日本縦断して、聞こえる人たちと私とのやり取りを撮りました。私の生涯のテーマは「コミュニケーション」。自分が苦手だからですが、生きるためにはコミュニケーションが必要です。一人で生きているわけじゃない。私が自分でやっていると思っていたことは実際はみんなのおかげで、その上に私が立たせてもらっている。今までそれを知らないでやってきた自分がすごく恥ずかしいなと思っています。
コーヒー写真「ともに生きる」ということを考えさせられます。一方的に「手をさしのべてほしい」だけの関係ではないですね。
 聞こえないから助けてもらって当然と思っている人もいます。私もそうでした。「聞こえない人=助けてもらう人」という公式をなくし、人間として助け合える関係になりたいと思っています。
 太田さんみたいに自分で自分を特別視せず色んな人と普通に接していけば、自分が自由に生きていける。でも、頭で思っていても、本当の勇気を出して一歩というのはなかなかできませんね。だけど、それでも踏み出していきたいと思っています。
 どんな人も色んな悩みがあって、それぞれの一歩があると思います。自転車の映画のキャッチコピーは「日本中のためらう人 へ」なんです。タイトルは『スタートライン』。自分が踏み出そうという気持ちがあれば、そこがスタートラインです。自転車で北海道の宗谷岬にゴールした時、ああ、またスタートなんだなと思いました。いつも「再出発」ですね。

筆者紹介

いまむら あやこ
愛知県立豊橋聾学校高等部卒業。愛知教育大学教育学部卒業。 大学在籍中にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に留学し、映画制作・アメリカ手話を学ぶ。現在、名古屋学院大学・愛知学院大学で講師をする一方、ドキュメンタリー映画制作で国内だけにとどまらず、アメリカやカナダ、韓国、ミャンマーなど海外にも取材に行く。Studio AYA代表。http://www.studioaya.com/
ドキュメンタリー映画『珈琲とエンピツ』の上映会と、監督・今村彩子さんの講演会を名古屋別院で開催します。(12月3日/詳細はこちら)

特集これってなあに?大谷派の仏華(2015年11月号)



・写真 報恩講の仏華(名古屋別院)

 お寺の内陣やお内仏を荘厳する仏華。大谷派では生花を用いるのを習いとし、とくに御遠忌や報恩講の仏華はひときわ華やかです。しかし、その由来を知る人は少なく、また伝統的な立て方を受け継ぐ人も急速に減少しつつあります。
 そこで、今号では仏華を特集。長年、名古屋別院の仏華を請け負ってこられた花屋才助(花才)さんを取材しました。大谷派の仏華は華道の池坊流から発達してきたもので、いわゆる立花式の挿し方が正当な形です。そこには様々な役枝があり、それを組み合わせながら立てていきます。この度の御遠忌法要でも、伝統にならった仏華が内陣を彩ることでしょう。
 では、花才さんに実際に本堂の仏華を立てるところを見せていただき、大谷派仏華の由来と願いを尋ねてまいりたいと思います。

別院の平常仏華の立て方


 
ア 直真(すぐしん)
イ 正真(しょうしん)
ウ 見越し(みこし)
エ 正真前(しょうしんまえ)
オ 請(うけ)
カ 請下※(うけした)
キ 流枝(ながし)
ク 前受/置(まえうけ/おき)
ケ 副(そえ)
コ 副下※(そえした)
サ 胴(どう)
シ 控(ひかえ)
ス 色切(いろきり)

※は名古屋別院では略す場合があります。

ご本尊に向かって左側に供えられる仏華のかたち。五具足の場合は、役枝が対となる。


1 藁束に直真を組む。
藁が見えないように
葉蘭(はらん)を巻く。
 
2 副と請を挿す。 3 控と流枝を挿す。

4 花を入れる受筒を組んでいく。
 
5 正真と正真前を入れる。 6 見越しを挿す。
7 胴を組む。 8 色切を挿す。
9 前受(置)を入れて完成。
 

ポイント
①直真の松は葉の量を調整し、
針金で束ねられています。
②流枝・控の松は枝の曲がり具合
などを考えて、一本ずつ針金で組みます。
俗に「笠」と呼ばれています。
③受け筒を組み、花が一本の線上に
ならぶように、また立体感が出るように
調整しながら花を入れていきます。
④仏華を背面から見た様子。
多くの受筒から仏華は構成されています。

大谷派仏華の由来

 本願寺の荘厳(おかざり)は、古来「西の供物に、東の仏華」と言いならわされてきました。つまり、西本願寺の荘厳では、須弥壇に奉備される豪華で多様なお供物が特徴であり、東本願寺においては、前卓に置かれる仏華がとても華やかで目を引くということから、そのように言われてきたのです。そもそも通仏教的に「六種供具」と言って、塗香・華鬘・焼香・飲食・灯明・閼伽(水)の六種類が仏前に供えられる供具とされますが、『仏説無量寿経』に「衣服・飲食・珍妙の華香・繒蓋(絹の傘)・幢幡(登り旗のような飾り)・荘厳の具」とあるように、華は浄土の大切な荘厳具の一つでもあるのです。
 さて、本願寺における仏華は、南北朝時代の覚如上人の伝記絵巻である『慕帰絵』に花瓶・香炉・燭台の三具足の荘厳具が描かれ、簡素な仏華が立てられているのを端緒とすることができます。しかし、大谷派の荘厳仏華の直接的な源流は、やはり室町時代の蓮如上人や実如上人の代にあると言えます。この時代はいわゆる東山文化の時代であり、伝統芸能である能狂言や茶の湯の基礎が形成された時代であります。書院造りという住宅建築の様式も生まれ、押板(のちに床の間へと変遷)や違い棚をしつらえて、畳を敷き詰めた座敷が作られるようになったのです。そして、押板に中国や朝鮮から将来された唐物の絵画を掛け、その前に花瓶・香炉・燭台の三具足や五具足などを飾る形式が整えられていきました。これが座敷飾りで、足利将軍家の側近にあって書院における茶の湯や美術品の管理などを担当した、「同朋衆」と呼ばれる人たちによって作法が制定されていきます。実は実如上人の代に、荘厳作法について有力な「同朋衆」であった相阿弥から指導を受けたという話があるように(『本願寺作法之次第』)、本願寺の荘厳はこの座敷飾りの影響を強く受けることになります。言わば、その顕著な例が仏華なのです。
 具体的に見ていきますと、座敷飾りの花瓶には「真」となる木と草花で構成される「立て花」が立てられましたが、これは京都六角堂の池坊専慶や専応によって「立花」として定型化されていきます。本願寺の東西分派後、とくに東本願寺ではこの池坊の「立花」の様式を導入し、仏華として発展させていったのでした。記録(『御堂日記』)によれば、一六〇四(慶長九)年の宗祖親鸞聖人御真影御移徙の折の仏華は池坊が立てたとあります。また、一六五八(明暦四)年三月の宗祖御真影の御遷座では、前卓の両花瓶のうち、北は「松一式」で池坊専存が、南は「竹真」で池坊専好が立てています。このように江戸初期では、重大な法要の祖師前仏華は池坊家元が自ら奉仕し、それ以外は御堂衆等が立てていたようです。その後は、花屋小兵衛(「花小」)が代々東本願寺仏華の御用を担うようになりますが、その詳しい経緯はわかっておらず、今後のさらなる検討が待たれるところです。
 以上、大谷派の仏華は、蓮如上人・実如上人が座敷飾りを仏前の荘厳として導入され、「いけばな」を確立した池坊の「立花」を基盤として独特の様式美を形成させてきたと言えるのです。

インタビュー 名古屋別院の仏華に関わって

名古屋別院の仏華を立ててこられた「花才」の澤田太さん、和広さん親子にお話を伺いました。

Q 花才さんが名古屋別院の仏華に関わるようになったいきさつは?

和広さん 関わるようになったのは江戸の後期とは聞いていますけど、正直なところよくわからないです。というのも私どもの家が一度全焼してしまっているので、書き残されたものがないんです。ただ、もともとは花屋として華材を調達する役目であったことは確かです。

太さん 実は私は婿養子で、一九五九(昭和三四年)ごろから仕事を手伝うようになりましたが、一年半しか経たないうちに先代が亡くなってしまったんです。ただその頃は、別院には「立方」(花技奉仕講)として来てくださっている方が四十人ほどいて、それぞれ地元では仏華のベテランの“先生”ばかりでした。それこそ、「こういうものと、こういうものを持ってこい」と言われて持っていけば、お華が全部立ちました。ですから、別院本堂再建後の入仏法要(一九六二年)も、宗祖七〇〇回御遠忌法要(一九六八年)もそうやってお華が立ちました。私は皆さんの中に入れてもらい仕事をさせてもらって、自然に仏華の立て方を覚えたようなものです。おそらくその“先生”方がみえなければ、名古屋別院の仏華は現在まで続いていなかったと思います。私どもは今もその時教えていただいた形で立てています。

Q 現在の状況はずいぶん様変わりしたとお聞きしました。

太さん 次第に肝心の「立方」が減ってしまって、だいたい三十年ぐらい前、昭和の終わり頃に私が全面的に「立方」の中心として関わるようになりました。つまり、世代交代ができないままに「立方」がみな亡くなってしまったので、止むを得ず私がやるようになったというわけです。当時の「立方」は地元のお手次寺の仏華も立ててみえましたから、別院に来てそのままその技術が使えたんですけどね。

和広さん 今は、花技奉仕講として十人くらいの方にお手伝いいただいています(右写真)、春秋のお彼岸・お盆・報恩講・お正月といった大きな仏華を立てる時は、私どもが説明して少しずつ覚えていただいているような状況です。

Q 宗祖七〇〇回御遠忌法要の仏華と今度の七五〇回御遠忌法要の仏華についてお聞かせください。

太さん 七〇〇回御遠忌のときは、仏華を二回立てました。一回目は御遠忌法要ということと、また春という季節に合わせて、使う材料もより華やかなものにしました。特に覚えているのは真に山桜を使ったんですけど(左写真 山桜の真の仏華と「立方」。右側後ろから2人目が太さん)、今のように冷房もないですから、長野県から取り寄せた桜の花が温かさでしおれてしまい、「指しなおせ」と言われて、夜中に指し替えたことがありました。それから二回目は「松一式」を立てました。

和広さん 今度の御遠忌法要は期間が十日間と長いこともあって仏華を三回立てる予定です。具体的にどうなるかは、華材の調達具合もありますのでまだ何とも言えませんが、ぜひお参りして、その移り変わりに注目していただけるとうれしいです。

(右 参考写真 花才さんが立てた松一式。華材は松のみで葉先に三色の蝋が塗られている。大谷派寺院にて)


 

 今回の特集の中でも言われるように、大谷派では仏華は必ず生花で立てられます。ですから、どんなに同じように花を立てようとしても、全く同じに立てることはできません。目の前の仏華とは一生に一度しか出遇えないのです。
 他の宗旨のお寺にお参りすると、ご本尊の前の花瓶が金属製の蓮華などでお荘厳されていることがあります。仏華を立てる側からすると「なんて楽なんだろう」とも思うのですが、大谷派で生花を使う理由は、“限りあるいのちの姿をお浄土に照らして見させていただく”からなのでしょう。
 一般のお寺やお内仏では、必ずしも今回掲載されている立て方はできないかもしれません。お庭に咲く花々を使うなど、自らの手でお浄土の荘厳をしていただければと思います。それはただ飾るのではなく、そこにいのちのあり方を見ていく歩みとなることでしょう。

編集/犬飼祐三子、小島智、小笠原直広 協力/山口昭彦 参考資料/『東本願寺の仏花』(真宗大谷派宗務所出版部)

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第2回

御遠忌法要(前期)二〇一六年四月二四日に音楽法要が厳修される。合唱団二百名の“声と音楽”を通して表現されるものは何か。第二回は、音楽法要に取り組む「法要部」の花園しをりさんにお聞きした。

ともに歌おう 声高らかに

 御遠忌事務局「法要部」音楽班の企画により、本山の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の際に、作曲を手がけた新実徳英先生による楽曲で、新実先生の指揮の下、音楽法要を厳修する運びとなりました。(左写真 新実徳英氏/作曲家・東京音楽大学客員教授)
 本年四月より御遠忌合唱団を結成し、寺族及び門徒の皆様と練習を始めています。音楽活動をしているご寺院やこの度の音楽法要に向けて新たに練習を始めていただいている合唱団もあります。総勢二百名の大合唱を目指して、新実徳英先生の指導による合同練習を予定しています。一人でも多くの方に、宗祖の教えにふれていただき、「ともに生きる─いのちのつながり─」を体感できるよう、ことばの意味を深く味わい、メロディに乗せ、声高らかに本堂でお勤めしたいと思っています。(右写真 昨年(2014年)の名古屋別院報恩講で、仏教讃歌を唱和する「ちいちの華の会」)
 法要式次第は出仕曲、着座曲、登高座曲、三帰依、散華曲、下高座曲、和訳正信偈、念仏和讃、回向、退出曲から成り、それぞれ重厚なオルガンの伴奏になっています。現代語訳の三帰依文は「この身は願う 一切の生きとし生けるものと共に」と歌われています。この度のテーマ「ともに生きる」を念頭に歌っていきたい一曲です。初重、二重、三重と念仏の音程も次第に上がり合唱の厚みも増していきます。そして「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」の和讃。さらには美しいメロディの回向へ気持ちも歌声も高揚感を持って進みます。
 『願わくは 一切世界の人々と この出会いの喜びを みな平等に分かち合い ともに仏になる心発して 阿弥陀みほとけの 安楽国に生れ 生きてはたらく身とならん』(回向)
 当日は親鸞聖人に対する喜びと感謝を表現し、堂内が、参詣の皆様と「ともに生きる」ことに手を合わせる音楽法要となることを願い、練習を重ねてまいります。
 御遠忌を機に、音楽法要がより広まるように念じ上げます。
 御遠忌委員会 法要部音楽班 第26組 光圓寺坊守 花園 しをり

法要部の取り組み:法要の内容の検討など ●ほとけの子御遠忌法要(4/22)●音楽法要(4/24)●伝統法要(4/26〜5/1舞楽・稚児行列)など

ともに生きる─いのちのつながり─“みんなの学校”はともに学びあう場所 文:木村 泰子氏(2015年10月号)


「いわゆる特殊支援学級を設けず、子どもたち、教職員、地域の人、保護者が一緒につくる公立小学校がある。
大阪市立 大空小学校の、子どもも大人もともに学びあう姿は、ドキュメンタリー映画『みんなの学校』に描かれた。
価値観を押し付けあい、振り回されあう“生きづらい”世の中にありながら、ともに生きるとはどういうことか。
大空小学校に創設から関わった、同校前校長・木村泰子さんにお聞きした。

 

 こんなに価値観が多様化している世の中で学校の役割は何だろうと、二〇〇六年に大空小学校を開校するにあたって教職員みんなで考えました。それは、子どもたちが自分らしく自分を生きていける力を育てたいということ。それで、「自分がされていやなことは、人にしない、言わない」という“たった一つの約束”だけで、校則もつくらなかったんです。どんな違いがあっても一人ひとりが大切にされる学びの場をつくるためです。
 でも、この約束が“水戸黄門の印籠”になってしまうと何の効果もない。だから、大人も子どもも全員がこの約束を守る。でもね、必ず毎日ね、破るんですよ。当然ですよ、こんなきれいごとで世の中生きられへん。破った時は「やり直し」をするんです。これを約束を守ることよりも大事にしています。
 子どもが子どもとぶつかって学びあう、もうそれしかない。何かトラブルがあったらクラスの皆が自然に集まって、授業はしょっちゅう中断です。それが、ある学年が支援の必要な子どもが一人もいなくて、いつも静かに授業ができた。でもその学年が全国学力テストの平均正答率が一番悪かったんです。そんなこともあるんですね。学ぶのは自分だから、詰め込まれただけのものは出ていきますよ。
 学びの場において必要なもの、有能な教員がいた方がいいとか、他にも色々あると思うんですが、でも優先順位の一番は、自分がその場で安心できるかどうかやと思うんです。ややこしいの(支援の必要な子)が、一杯ややこしい姿を出してるから、普通やと思っている子も、「あ、自分らしくおったらいいんや」ということを周りから学ぶ。それがとても大きな安心感につながってる。安心しているところでは自分を出せる。自分を出すから学べる。
 自分が弱者じゃないと思っている人たちが、子どもの敵なんです。いつ自分が弱者になるかわからない。だから地域の人も、保護者も、教職員も、自分のために一緒に学びの場をつくってる。学校は子どもと大人が学びあう場所なんですよ。
 ふつう学校ってね、昔遊びを教えてくれる人とか、ニーズのある人を呼ぶんです。でもね、例えば、ウロウロしてるおじいちゃんに、「授業中、子どものそば行ったってよ」って言ったら、「わしみたいな取り柄の無い者が行ったら迷惑かける」と。それで「「わしは何の取り柄もないねん、もう居るだけやねん」というのを子どもの前に見したって」と反対に言うんですよ。何かができるとかできないじゃなくて、この自分の存在はどんなに大事なんだということを一緒に気づいていくんです。
 「ともに生きる」というのは、ありのままの自分をそこで出せるということですね。それは他者のありのままを知る、学ぶということですよ。人を変えてやろうと思ったら自分は変わらない。全ての人間が対等でなければ、本来の学びは成立しないと思ってます。
 修学旅行の広島で、子どもたちに「先生、どうして戦争やってるの」って、毎年それを突き付けられてる。いまだにそれには答えようがない。「なんも答えられへん」って正直に言います。一切いい格好はしません。ありのままを出してます。ありのままを出せる、それが“安心できる”ということです。
 そんなことも一人ではできないけど皆でやるんです。私なんか、「校長、いまのアウト。やり直ししといで!」「はい!」って。しょっちゅうですよ。だから楽しくおれる。これが校長の殻をかぶってたら動けません。子どもも大人も対等の人間で、好き放題動いている。安心できる場所だからですね。 (談)

筆者紹介

きむら やすこ
大阪市立 大空小学校の開校から同校校長に赴任。2015年3月に定年退職。著書『「みんなの学校」が教えてくれたこと』(小学館)。

特集これってなあに?イラストでみる"御遠忌法要"(2015年10月号)


50年に一度勤められる御遠忌。この大法要に私たちが〝遇う〟ことができるのは、せいぜい二度ぐらいであろう。
御遠忌の風景には、先達より相続されてきた形が今もなお、伝統法要として息づいている。
その〝御遠忌〟の種々をイラストで見ていきたい。
ぜひ、2016年に名古屋別院で厳修される〝あなたの御遠忌〟にお参りください。

①雅楽(ががく:イラスト左下)  ②舞楽(ぶがく:イラスト中央)
③七條袈裟(しちじょうけさ:イラスト右下)  ④修多羅(しゅたら:イラスト右下)
 

①②雅楽・舞楽は浄土の荘厳

 雅楽は中国、朝鮮半島を経て日本に伝わった伝統的な音楽の一つで、世界最古のオーケストラと言われています。法要舞楽「供舞」は、仏祖を荘厳(おかざり)する音曲で、楽には声楽(声明)、器楽(笙・篳篥・笛の三管、太鼓・鞨鼓・鉦鼓の三鼓)、舞楽(境内に設けた舞楽台で行う舞)の三つがあります。寺院の法要では僧侶の称える声明がよく知られ、馴染みがあることと思いますが、その旋律にあわせて三管を用いて伴奏する「附物」、また、僧侶の入退堂時などに三管に加えて三鼓を用いる「附楽」は、大きな法要に欠かせないものとして伝承されてきました。五十年に一度の御遠忌法要等では、楽僧(雅楽を奏でる僧侶)の演奏に合わせた「舞楽」による浄土の荘厳も行われます。

③袈裟の形は古代インドから

 古代インドの出家僧侶は、財産となるような私有物を持つことを禁じられていました。その為、捨てられたボロ布を綴り合わせて身を覆う衣を作っていました。これをサンスクリット語でカシャーヤと呼び、音訳したものが「けさ(袈裟)」です。
 袈裟は、中国・日本へと伝播するうちに装飾的なものへと変遷しました。現在、日本では様々な色や金襴の布地が用いられていますが、もともとのカシャーヤの名残で小さく裁断した布を縫い合わせて作られています。
 また小さな布を縦に繋いだものを「条」とよび、これが横に何枚か縫い合わせられます。真宗大谷派では、条の数が「五条」と「七条」のものがあり、「七条袈裟」を最高の装束としています。

④私たちに伝わる修多羅

 七条袈裟の背部に垂れる組紐のことを修多羅といいます。修多羅とはサンスクリット語のスートラの音訳で「線、條、絲、紐」の意味です。実はこのスートラという言葉は意訳(意味で訳すること)すると「経」。「お経」です。緯度・経度という表現があるように、漢語としての経は「たて糸」の意味です。たとえば数珠をつなぐ紐には「珠を貫きこれを保持する」はたらきがあります。そこから転じて、義を貫いて衆生を保持するものとして、釈尊の説かれた教えに「経」の字が当てられたようです。

※イラストは実際の儀式作法とは異なるところがあります。

編集/黒部朋之、富永茂子、仲尾覚、八代篤典、伊藤正志

【コラム】ともに生きる―いのちのつながり―第1回

今号より教区・別院の御遠忌法要にむけて、御遠忌委員としてご尽力される方々にご寄稿いただきます。各部の取り組みや課題を明らかにし、御遠忌テーマを深めていきます。第一回は御遠忌テーマ「ともに生きる─いのちのつながり─」の選考を担った渉外部の石原由美さんにお話をうかがいました。

命に向き合い、命を生きる

 戦後七十年という節目を迎えた今年の夏、様々な戦争をテーマにした番組が放送されていた。どの番組も戦争の悲惨さとこの悲劇を二度と起こさないことを訴えていた。しかし今、過去の悲惨な歴史に目をつむり、国を守るためと理由付けをして、命を危険にさらすような新たな法律を制定し、この国を悲惨な過去に逆戻りさせるような動きが出始めている。
 戦禍に見舞われ、多大な犠牲を払った沖縄を訪ねた時、語り部の女性が当時の悲惨な状況を話してくれた。死を目の当たりにして銃弾の雨の中を逃げ回り、迫り来る恐怖と戦いながら生きて来た彼女は、「二度と再び戦争を起こして欲しくない。生きていること、命を大切にして欲しい」と語った。辛い経験を語り継ぎ、それを伝え続けることが、無念の死を遂げた人々の命をつなぐことだと優しく微笑んだ。
 命とは願いであり、思いではないか。
 「すでに身を受けんと欲するに、自らの業識を内因となし、父母の精血をもって外因となして、因縁和合するが故にこの身あり。」善導大師のお言葉である。
 私が今ここに生きている事、生まれた事は偶然ではなく、私に命をくれた人の、生まれて欲しい、生きて欲しいという「願いと思い」、そして私自身の生まれたい、生きたいという「願いと思い」が合わさって私が今ここにいるのである。命は宇宙の始まりからずっと続いてきた。そしてその中の誰一人欠けても私はここにいないのである。大きな戦争や天変地異を繰り返してきたこの国の歴史の中において、誰一人欠けることなく命がつながってきたこと、それは大きな奇跡である。私は奇跡の存在であり、願われ望まれ生まれてきたのである。今ある私の命は、両親から遡る縦のつながり、そして生きていく中での出会いによる横のつながり、縦と横の命をつなげてくれた人々の命でもある。命をつなげてくれた人々の命を受け止めて生き、命をつなげていく。それも、「ともに生きる─いのちのつながり─」なのではないだろうか。
 大切な命を不本意に失う悲惨な過去に逆戻りさせないためにも私は、私に託された命を問い続けていきたい。

  御遠忌委員会 渉外部 副部長 名古屋教区第22組 瑞雲寺 坊守  石原 由美

ともに生きる─いのちのつながり─「命どぅ宝」は法蔵菩薩の願心です。 文:知花昌一氏(2015年9月号)


「命どぅ宝」“命こそ宝”。知花昌一さんはこの言葉が、沖縄戦を生き抜き、戦後を生きた人たちの依り処になってきたという。この言葉に込められた願いを考えるとき、宝といわれるその命とは何なのかとの問いに行き当たる。知花さんが、「(親鸞聖人がいただかれた『仏説無量寿経』に物語られる)法蔵菩薩の願心そのもの」だといわれるそれは、自分ひとりが生きて死んでいく、ただそれだけの命ではなかろう。
人間の尊厳を奪い去る“戦争”の悲劇を、人間の歴史は何度も経験してきた。その悲劇はこの世界に今も終わらない。そんな人の世にありながら、「輪転のうちにありながら」、ともに生きあい、つながりあう私たちが求め続ける“我らなるいのち”ではないか。

 

沖縄のこころといえば、「命どぅ宝」です。一つしかない命を大切にすることは人類普遍の願いであり、法蔵菩薩の願心そのものです。法蔵菩薩は五劫思惟し、「我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、この願満足せずは、誓う、正覚を成らじ」(『真宗聖典』二五頁)と誓います。四十八願は平和と平等そのものです。
「命どぅ宝」が沖縄のこころとして自他ともに認知されているのは、地上戦という耐えがたい特殊体験・多大な犠牲を通して得た教訓だからです。
地上戦という地獄を生き抜いてくる過程で、きれいごとではない、卑怯な、恩知らずな、非人間的行動をとらざるを得なかった人々が、戦後、後悔と慙愧の中で「それでも、生き抜いたことがよかった」といのちのつながりを果たすことを自分に言い聞かせ、歩み出して行く精神的依り処そのものの言葉です。
たとえば、集団強制死=集団自決(*1)で自分の子どもを手にかけ殺し、自分は生き延びたお母さん、傷ついた親兄弟を見捨て逃げた人々、ひもじさのあまり他人の食料を盗んだ人々、恐怖のあまり敵前逃亡し仲間を見捨てた兵士などなど。
チビチリガマ(*2)の集団強制死から六ヶ月の子を抱いて生き延びた二十六歳―今九十六歳の母親は「この子を殺せなかったし、自分が死ねばこの子も死ぬと思い、ガマを出た。六歳の息子を亡くしてしまって、今も後悔しているが、生き延びたことでこの子も成長し、自分も再婚し子どもにも恵まれた。今は幸せだよ、生きていてよかったんだよ、命どう宝よ」と言います。
沖縄の戦後はこのようにして生き延びてきた人々の精神的葛藤、後悔、慙愧、血と汗と涙によって復興されてきたのです。 このような人々を親鸞聖人は「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(『真宗聖典』五五三頁)、「悪人」(『歎異抄』第三章)と愛おしさをこめて表現したものだと思います。
日本本土も食糧難の戦後の人々の生き方はそのようなものでしょう。そのような「悪人」が生きていく依り処としての言葉が「命どぅ宝」なのです。念仏が生きているところでは「南無阿弥陀仏」でしょう。
戦後七十年経った今も戦没者追悼の言葉に「皆様の尊い犠牲のお陰で今の平和で繁栄した日本があります」「皆様の犠牲は無駄ではありませんでした」と犠牲を、死を美化し、正当化するような発言が見られます。自分の身内の死を意味あるものと思いたい気持ちは解らないではないですが、尊いのは命であって、犠牲=死ではない。逆転させられている。死んでいった者が、特攻自決していった若者たちが生きていたらと思うと、犠牲=強制された死に怒りが湧いてくるし、悔しくてなりません。
彫刻家・金城実さんと共同制作した「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」はあえて「世代を結ぶ」と銘打ってあります。八十五人の犠牲者と五十五名の生き延びた人々、その子どもたち、その孫たちとともに、いのちのつながり―「命どぅ宝」と、思いのつながり―平和を学ぶ場にチビチリガマはあります。
*1:以前使っていた「集団自決」は自ら進んで命を捧げたように受け取られ、実態にそぐわないとして、最近では「集団強制死」が使われるようになっている。
*2:沖縄の言葉で「洞窟」のことを「ガマ」といい、沖縄戦時、住民や日本兵らはいくつかの自然洞窟を避難場所に利用した。沖縄県読谷村にある「チビチリガマ」では、投降を勧める米兵を信用できず集団で死が選ばれ、ともに暮らしてきた村民や家族同士らが命を絶ちあった悲劇の舞台となった。

筆者紹介

ちばな しょういち
1948年、沖縄県生まれ。沖縄大学法経学部中退後、2000年まで食品スーパー経営。1983年より下嶋哲郎氏の下でチビチリガマ「集団強制死」調査。1987年、沖縄国体で日の丸旗を焼却、1995年に懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受ける。1996年、地主として米軍通信基地「象の檻」に立ち入り、全面返還を実現。1999年より読谷村議会議員を一年間勤める。12年、大谷専修学院修了、真宗大谷派僧侶となる。2014年、聞法道場 僧伽「何我寺」を開寺。東本願寺沖縄別院衆徒。読谷村平和実行委員。【主な著書】『焼きすてられた日の丸』(新泉社)、『燃える沖縄 揺らぐ安保』(社会批評社)、『我肝沖縄』(解放出版社/共著)、『抵抗者たち』(講談社/共著)。

御同朋とは ともに生きる尊敬される関係 文:知花昌一氏(2015年8月号)


知花昌一さんは熱情の人だ。沖縄の本土復帰を願って願って願って、その願った国に“裏切られ”て、日の丸を焼くまでした。その知花さんに、平和を願いつつ戦争を止められない人間という存在について、ともに生きようと願いながら傷つけあう私たちについて書いていただいた。名古屋教区・名古屋別院の親鸞聖人750回御遠忌のテーマは「ともに生きる-いのちのつながり-」。私たちの願う平和の世とはなにか。それがどのような世界なのか。わからない。そんな“平和”を見失う私自身に向き合い、そういう世の中、時代に向き合い、なお、ともに生きていこうという、覚悟の言葉だ。

 

 去った戦争から七十年という節目の今年、六月二十三日の沖縄慰霊の日、八月十五日敗戦―終戦の日、戦争と平和について考える月間となります。誰もが願い、望んでいる平和とは「①やすらかにやわらぐこと、おだやかでかわりのないこと。②戦争がなくて世が安穏であること」(『広辞苑』)とあります。でもちょっと物足りない表現だと思っています。
近年盛んになってきた平和学においては、国家間関係としての戦争のない状態を消極的平和として表現し、人間性の凌辱のない状態を積極的平和として捉えることが定着しています。凌辱は単に目に見える暴力としてだけでなく、制度―社会の仕組み、いわゆる国の内側に潜む“構造的暴力”のない状態です。
 構造的暴力とは、平和学の提唱者・ヨハン ガントウング(ノールウェー)が積極的平和を阻害するものとして考える概念で、―社会的に存在する飢餓、貧困、格差、差別など―人間の尊厳を阻害するものをいいます。
 平和学における「積極的平和」は、私たち一人ひとりに人間として尊厳が発露される状況の実現をめざしています。
 今の私たち日本は、本当に平和なのでしょうか。
 六月二十三日の沖縄慰霊の日、摩文仁の会場で高校生が読み上げた文章のタイトルは「弥勒世がやゆら」(平和の世であるだろうか……)でした。※
※沖縄県などの主催で糸満市摩文仁の平和祈念公園を会場に開かれた「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」にて、沖縄県立与勝高校(うるま市)三年の知念捷さんが、自作の詩「みるく世がやゆら」を朗読した。

 
戦没者の名前が刻まれる「平和の礎(いしじ)」に手を合わす人々(2015年6月23日/平和祈念公園)

集団的自衛権行使を正当化するものとして「積極的平和主義」という言葉が政治の場で使われていますが、アメリカとともに積極的に軍事力を行使し、敵対者をたたきつぶすことが平和になるかのような言い回しがされています。およそお釈迦様の教えにそぐわないことは明らかです。人類は、平和や正義をかざして戦争を正当化し、また戦争は間違いだと思いながらも繰り返してきた悲しい存在そのものです。私も、あなたも悲しい人類の一員であり、悲しさを知ったものとしての懺悔があります。
 私たちは「同朋」という言葉をよく使っています。真宗大谷派の『同朋新聞』、真宗同朋会運動……。
 同朋とは「念仏の行をともにするともがら」といいますが、私たち真宗門徒だけの狭い捉えかたではありません。「ともに生きる尊敬される関係」であり、平和学における構造的暴力の無い「積極的平和」の実現された状況ではないでしょうか。同行の朋であっても「ともに生きる」ことは難しいものですが、ましてや、国が違い、宗教が違い、文化が違う多くの人々と「ともに生きる」ことは至難のことです。「人」は支え合っていく存在です。遅々とした歩みであっても、「ともに生きる」という課題を我が身で引き受けることから始まるような気がします。お釈迦様は、念仏はそのことを教えているものだと思います。

筆者紹介

ちばな しょういち
1948年、沖縄県生まれ。沖縄大学法経学部中退後、2000年まで食品スーパー経営。1983年より下嶋哲郎氏の下でチビチリガマ「集団強制死」調査。1987年、沖縄国体で日の丸旗を焼却、1995年に懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受ける。1996年、地主として米軍通信基地「象の檻」に立ち入り、全面返還を実現。1999年より読谷村議会議員を一年間勤める。12年、大谷専修学院修了、真宗大谷派僧侶となる。2014年、聞法道場 僧伽「何我寺」を開寺。東本願寺沖縄別院衆徒。読谷村平和実行委員。【主な著書】『焼きすてられた日の丸』(新泉社)、『燃える沖縄 揺らぐ安保』(社会批評社)、『我肝沖縄』(解放出版社/共著)、『抵抗者たち』(講談社/共著)。

ともに生きる―いのちのつながり―   写真:渡部陽一氏(2015年7月号)




写真は2003年のイラクで、戦場カメラマンの渡部陽一さんが撮影したものだ。
 
ともに生きる難しさ、ともに生きる尊さ、ともに生きたいとの強い願いが、
男たちのつながれた手と悲しみをたたえたその表情から問いかけられているようだ。
2015年のいま、ここに生きる私たちに。

*名古屋教区・名古屋別院では、2016年に宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要をお勤めする。「ともに生きる−いのちのつながり−」はその御遠忌テーマ。
御遠忌特別講座「第50回暁天講座」で、渡部陽一さんにお話しいただきます。

わたなべ よういち
1972年、静岡県生まれ。明治学院大学法学部法律学科卒業。学生時代から世界の紛争地域の取材を続け、戦場のリアルな声を伝えている。訪れた国は130ヶ国以上にのぼる。テレビでの独特な語り口でも知られる。

「あまねくともに生まれよ」という呼びかけ   文:三木彰円氏(2015年6月号)


「ともに生きる—いのちのつながり」。名古屋教区・名古屋別院の御遠忌テーマから、三木氏は前号で、現代社会は「「ともに」という言葉を繰り返し口にせずにはおれない状況が突きつけられている」といい、また「「ともに」という言葉とは全く裏腹に、他から孤立し関係を拒絶する」私たちの姿を見つめた。「他」とは、「私」とは何か。人の世を「ともに」生きあうこと難い、「輪転」なるものと見出した仏教が、ひいては人類が聞き続けている問いかけかもしれない。

 


 「ともに」という言葉から私たちが問いかけられてくることは、自己と他者、さらには自己と他のさまざまないのちとの関わりのありようである。私自身が他者や他のさまざまないのちとの関わりのなかに生きていることは、当たり前のことであって、ことさら問題としなくてもよいようにも思われる。しかしそのことが「ともに」という言葉を通して改めて問いかけられていくところには何があるのだろうか。

 私が他なるものとの関わりあいのなかに生きているということは、私が生きるところにある〝事実〟である。けれども、私がその〝事実〟に対して日ごろどのような〝思い〟を持っているのかということは、必ずしも私のなかに明了になっていない。自己が他との関わりにおいてあるという〝事実〟を、私たちは知らないわけではない。けれどもその〝事実〟そのものと、それに向き合う私の〝思い〟とは必ずしも一致するものではないのである。むしろ〝事実〟ではなく〝思い〟を優先して自己との他との間を判断し、そこに優劣を見出し、あげくは他者を見失い自己をも見失っていく私のあり方こそが、「ともに」という言葉を通して問いかけられているのである。

 釈尊の説かれた縁起の道理とは、身勝手な〝思い〟によって生きていくことの問題を私たちに教え、自己と他者との関わりの〝事実〟に立って生きることの確かさを教えてくれるものである。やがてその釈尊の教えが「大乗」という言葉で問い直された時、教えによって生きることを菩薩という名のりに明らかにしていった方々は、自利と利他という課題を通して自己と他者との関わりを問うていくこととなった。しかしここで問われた自己と他者との関わりとは、単に、自己が他者に関わる、あるいは他者が自己に関わる、という問題に止まらず、また自己と他者は一つだという言葉で、安易に目の前の事実を無化し美化してしまうのでもなく、自己と他者とがどこで「ともに」と言い得るのか、また「ともに」という場をどこに見出すのかという課題であった。  その課題に応える道を明確に言葉で表されたところに天親菩薩の『願生偈』がある。「普くもろもろの衆生と共に」(『真宗聖典』一三八頁)という一句に菩薩としての課題を明らかにされる天親菩薩は、「共に」ということの成就を、
 世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず(『真宗聖典』一三五頁)
という言葉で明らかにされている。つまり、阿弥陀仏に帰命し浄土に生まれることを願う「我」を見出し、そのわが身において「普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん」という志願を見失わない。そこには阿弥陀の本願によって「普く共に」浄土に生まれることを願われ呼びかけられ続けてやまない自己と他者との発見がある。そこに「共に」ということの成就があるのである。このことに導かれて、仏のよびかけを聞きながら、あらゆるものを「われら」とし、「われらともに」と生きぬいたところに親鸞聖人の生涯がある。

 改めて私が自らの生きる日々の中に、「ともに」という言葉を活きてはたらくものとしていこうとするならば、その根源にはまず何よりも「十方衆生よ、普く共に」と願われ呼びかけられている自身が明らかにならなければならないのである。

筆者紹介

みき あきまる 1965年、宮崎県生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士後期課程(真宗学)単位取得退学。文学修士。【主な論文】「親鸞の思想課題における「文類」形式の考察」(『親鸞教学』)、「無窮の志願¦坂東本修復・復刻事業を通して―」(『親鸞教学』)他。

「ともに生きよ」という呼びかけ   文:三木彰円氏(2015年5月号)


「ともに生きる」。改めて言うまでもなく、人はその原初より“ともに”生きてきたし、現代においても“ともに”生活するものであり、これからも“ともに”あり続けるだろう。だがしかし、いま一度、わが身、わが世を見つめてみれば、「なぜともに生きねばならぬのか」と身もだえしたくなるような瞬間が訪れるのも、人の世のならいと言えまいか。自分の想いに、世間の価値観に右往左往し流転する、「輪転」のうちにある私は、“ともに”生きているのだろうか。

 


 名古屋教区・名古屋別院では、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌にあたり「ともに生きる─いのちのつながり」というテーマが掲げられているとのことである。宗門の内外を問わず、「ともに」という言葉がさまざまな場面で口にされる昨今である。「ともに」という言葉によって何事かが呼びかけられるということは、ずいぶん以前からあったには違いないが、ことに東日本大震災という大きな出来事を通して、改めて私たちに「ともに」という言葉を繰り返し口にせずにはおれない状況が突きつけられている。家族・友人・地域共同体の喪失という厳しい事実は、直接に被災した方々のみならず私たちが生きる社会全体に、人間が「生きる」ということは「ともに」という関係を根底として成り立っているという事実を教えているのであり、私たち一人ひとりが自らのありようの中に「ともに」ということを明らかに頷いていくことの大切さを問いかけているのである。

 しかしその一方で、「ともに」という言葉が声高に叫ばれるのを耳にする時に、また自らが「ともに」という言葉を口にする時に、私自身の中に何かしらの空虚さにも似た違和感を感じてしまうことも否めない事実である。さらに私たちの社会に噴出し続ける様々な事件に接する時、「ともに」という言葉とは全く裏腹に、他から孤立し関係を拒絶する生き方の中に自らの安住の場を求めようとする私たちの姿があるのではないかと感じずにはいられない。いったいなぜなのだろうか。

 そのようなことを思う時、「ともに」という言葉の中に、私たちが確かめていかなければならないことがあるように思われる。それは誰が誰に対して「ともに」と呼びかけているのか、またその「ともに」という呼びかけをなす者はどこに立脚して「ともに」という言葉で何事を呼びかけているのかということである。

 不安や苦悩の只中に身を置く人が、その不安や苦悩に気づくことのない者に向かってなす「ともに」という呼びかけは痛切なものであろう。私が「呼びかけられる」側にいるのであれば、私がまずなさなければならないのは、その呼びかけを「聞く者」となることである。一方、不安や苦しみの只中にある人に対して私が「ともに」と呼びかけていくとするならば、呼びかけをなす私は、まず私がどこに立って相手に呼びかけているのか、そして何事を相手に呼びかけているのかを自らのうちに確かめなければならない。「対岸の火事」という言葉のごとく相手と自らとの立場を隔絶させて、どれだけ「ともに」と繰り返しても、その呼びかけはすでに「ともに生きる」場を失ってしまっている。また私が呼びかけていく事柄が、確かで豊かな内実を持たないならば、その呼びかけは相手にとっては空虚な言葉としてしか響かないであろう。

 そのように考える時、親鸞聖人が「煩悩具足の凡夫」という大地に自ら立ちつつ、全ての「いのち」に向かって、「われら」「御同朋」と呼びかけ、ただ念仏してその人生を生き抜いていかれたことこそが、「ともに生きる」ことの最も具体的なありかたを私たちに明らかにしていることに気づかされる。その親鸞聖人のお姿を、私たちは今改めて尋ねていかなければならないのである。

筆者紹介

みき あきまる 1965年、宮崎県生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士後期課程(真宗学)単位取得退学。文学修士。【主な論文】「親鸞の思想課題における「文類」形式の考察」(『親鸞教学』)、「無窮の志願¦坂東本修復・復刻事業を通して―」(『親鸞教学』)他。

ともに生きる‐いのちのつながり‐   書:澤田佳久氏(2015年4月号)




2016年、名古屋教区・名古屋別院では宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要をお勤めする。その御遠忌のテーマが「ともに生きる─いのちのつながり─」。人と人とが交わり暮らす世の中で、自分が今、ここに、私として生きるということに向き合ったとき、おそらくその全ての人が、きっと問題にする。“ともに生きる”とはどういうことか。今、ここに、このように生きる私自身に真向いになる。それが親鸞聖人の御遠忌をお勤めすることに他ならない。

さわだ よしひさ さつき書道会/デザインオフィス書の杜523 主宰
1973年生まれ。半田市亀崎在住。7歳から書を始める。海外生活を経験する中で海外から見た日本の伝統文化の奥深さを再認識し、26歳より書道を再開。現代書道の持つ新たな可能性を信じ2012年からフリーの書道作家として活動。日常は、自身が主宰を務める「さつき書道会」で教室を運営し、大人から子どもまでを指導。“日常生活の中に、気軽に書を取り入れてもらいたい”との思いから、随時魅力あるワークショップを開催。代表的なものとして、亀崎まちおこし事業の一環で、満月を観賞しながら書をたしなむ、満月書道/来教寺(半田市)や、新月の夜に、波の音を聞きながら心静かに写経する、新月写経/café ocean(西尾市)などが人気。

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