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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第1回 歎異抄

宗派をこえた宗教書 人間の心「異」を破る

真宗に流れをくむ人びとだけではなく、仏教とかキリスト教とかに関係なく、およそ宗教に関心をもつ人なら、必ず一度は手にする、日本で生まれた宗教書、それが歎異抄であります。これは親鸞聖人が、わざわざ筆をとってお書きになったものではありません。お弟子に対して親しくお話になったことばでありますが、またかえってそれだけに、私たちにも親しみやすくやさしい中にきびしく胸にせまるものがあります。これを書いた人は、聖人の直弟子である唯円という方だといわれています。お弟子の作ということになりますと、私たちの先輩である方によってつくられた、たった一つの作ということになり、ますます深い意味を感じさせられます。それは弟子としての受け心が教えられるからであります。

内容についても、いろいろいわれていますが、だいたい落ちつくところは、後半の第十一章以下、第十八章までの異義八カ条といわれるところが歎異といって唯円が信心の異なりを歎いて問題を指摘している部分でありますから、正しく歎異抄といえるのはこの部分であり、一番終わりの(後序といわれていますが)ところに「大切の証文ども少々ぬきいでまいらせて、目安(結論を出す標準、参考)にして、この書にそいまいらせそうろうなり」とある大切の証文は、前半の第十章までの聖人の語録であると考えられます。つまり歎異抄は聖人の語録と唯円の歎異、この二つで成り立っているといえましょう。

この書を歎異抄と呼びますのは、最後のところに「名づけて歎異抄というべし」とあるのにもとづくのですが、何が異であるのかと申しますと「信心異なることなからんために」と終わりのところに出ていますように信心の異なりを指しています。これは真宗に於いて特に重大な問題でありまして、ほかの宗教では信ずるか信じないかが問題でありますが、親鸞聖人の宗教では、どう信ずるかという、信心のあり方が問題であります。親鸞聖人が正信といわれるのは純粋な信心、純粋は人間にはありませんから如来のおこころ、それが私たちに実現したのが南無阿弥陀仏のこころ、これは人間の心が破れた心であります。どこまでも人間の心(異)を破って如来のおこころを明らかにしていく、それが歎異抄第一巻の内容であります。

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