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  5. 第10回 仏説無量寿経 〈巻上〉

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第10回 仏説無量寿経 〈巻上〉

全人類への呼びかけ ~ 永遠のともしび(1)

このお経は宗祖によって大無量寿経と呼ばれ、上下二巻ありまして、略して大経と呼ばれます。支那に於いて前後十二回にわたって翻訳されたといわれますが、現に残っているのは五部だけで、私たちが今拝読しているのは、千七百年ほど前、康僧鎧という人が訳されたものであります。宗祖は承認は「本当に私たちにとって真実の教えと言うものをあげるならば、この大無量寿経以外にない」といわれましたが、真宗がまことの教えであるというもとは、このお経によるものであります。

さてこのお経が説かれました機縁は或る時、いつもお傍につかえていた阿難が、今まで見たことのない釈尊の姿に驚き、そのわけをお尋ねしたことから始まります。この釈尊のお姿がどこからあらわれてかというと、過去、現在、未来の諸仏方がお互いに相念じていられることを感得されたことからでありますが、未来の仏というのは未来に仏になるべき人、いいかえればすべての人類であります。(これによってすべての人類の心の底には、仏になりたいという深い願いのあることが知らされます。)これは何をあらわすかというと、過去や現在の仏は、自分が仏になることが出来たものの未来の仏、つまり人類は、自分が仏になることの出来ないもの、それをお互いに憶念しあうということであり、いうまでもなく釈尊もその中の一仏ではありますが、こういうものを感得された釈尊のお心を、仏々想念三昧と申します。

たくさんのお経がありますが、特に大事なお経には、それが説かれる前に、三昧ということがあらわされています。三昧というのは、外のいろいろのことに走る心をとどめて、深く内に帰り、そこに思いをこらしてまことを見つけることでありますが、釈尊はその時その時、三昧に入って、深くして広いまことの一面を開かれ、それをお説きになりました。有名な涅槃経や華厳経、あるいは法華経もそういうかたちで説かれたものであります。今、この無量寿経も仏と仏とが相念じられるという三昧によって見つけられたものをお説きになったのでありますが、これは自分を仏にしたものをお互いに念じ合われるという、諸仏全体の大きな三昧の中に心をしずめられたことであります。だから単に釈尊個人の三昧ではありません。そういう三昧でありますから、釈尊が平生と違ったお姿になられるのも当然でありましょう。

この姿を阿難から問われてお説きになったのがこの無量寿経でありますが、そうしますとこのお経は釈尊が個人の資格でお説きになった他のお経と違って、三世諸仏を代表してお説きになったということになり、ここに他のお経に比べて特別の意味があります。そしてその内容は、釈尊を初め一切の仏を仏をして生み出したもの、またこれからの全人類を仏にするもの、いわば仏教の生まれた根、言いかえれば本願が説かれているのであります。

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