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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第15回 仏説無量寿経 〈巻上〉

力となる願い 我執破る実践力 ~ 永遠のともしび(6)

前回まで無量寿経の本願についてお話しました。真宗の根本聖典ですから多少念を入れてお知らせしなければならないと思いますので長くなっております。さて法蔵菩薩が願をおこされたことについての記述が終わりますと、次いで修行ということが語られてまいります。修行というのは願いを具体化する実践のことですが、本当の願いであれば必ず実践というものがともなってくるに違いありません。
よく、願いはもっているが実践できないという人がありますが、力がでてこないのは願いがまだ本物になっていないからでしょう。だから曇鸞大使は「願いは必ず力を生み出せるし、生まれた力は必ず願いを実現させるであろう」といわれています。このように願いを力というものは必ずともなうもので、ここに修行が完成して参ります。従って力のない願いはむなしい希望であり本当の願いのない力は暴力になるでしょう。

法蔵菩薩の願いと修業な何のためかというと、すべての人々が助かる世界、本当に安心し満足できるような国をつくりたいということでありますが、そのために菩薩は、先ずどういう国を願えばよいかと、願いそのものを吟味し、取捨選択をされました。それを選択本願といいます。さて今度は修行ですが、願いを実現するためにどういう修行をされたかというと、詳しく三業をもって修行されたことがあらわされております。

三業というのは、心と身体とことばによってあらわされるものであります。だから三業をもって修行されたということは、片手間でなく自分の全体をあげてということ、自分を投げ出されたことであります。修行の内容はいろいろありますが、結局、浄土を見出す清浄の行ということになります。清浄というのはきよらか、何がきよらかかというと自我のまじらぬこと、執着のないことであります。だから清浄の行ということになると、どこまでも自分を破っていくことになりましょう。

浄土はこの清浄の行によって見出された世界であります。どこまでも己を空しくして世界を見つけ、我執をやぶって一切の人々の心となり、あらゆる人間の救われる国を開こうというのが法蔵菩薩の修行の内容であります。だから我執のない心を磨き(心)、一切の人々ために生きるような行動(身体)と、人間に対する深い痛みと配慮のある発言(言葉)こういうものが含まれております。

親鸞聖人はこの修行は結局、念仏であったと受け取られているようであります。どこまでも念仏を掘り下げ、それによって自分を深め(浅いのは我執)、世界を広げ(狭いのも我執))ていかれた、そしてそこに浄土が見出されたのだというのが聖人の御了解でありましょう。だから私たちが念仏するところに浄土が開けるのでありましょう。念仏によってきずかれた世界を開く鍵は、やはり念仏以外にはありません。

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