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  5. 第18回 仏説無量寿経 〈巻下〉

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第18回 仏説無量寿経 〈巻下〉

浄土と穢土の交流 ~ 永遠のともしび(9)

無量寿経には上巻にも偈文(詩の形になった文章)が二つありましたが、いまこの下巻にも一つの偈文があります。しかし前の二つの偈文はおつとめになっていますので、よく知られている面もありますが、この偈文はおつとめになっていませんので、わりあいに見過ごされています。それと内容がはっきりとつかみかねるという意味もあって、名前も「往覲偈」とか「東方偈」とか呼ばれています。たしかに往覲偈という内容もありますが、それは前半だけの意味ですし、東方というのは偈文の最初に出てくる言葉で名づけられただけですから、全体の意味をおさえたものではありません。とにかく意味のつかみにくい偈文であります。だからといって価値のないものということではありません。偈文になっているものは特別の意味があるのでしょう。

前にも申しましたように、この偈文の前半は往覲ということについてあらわされています。往覲というのは菩薩が浄土へ行くことであります。凡夫が浄土へ行くのを往生と言いますが、これはどこが違うかというと、凡夫の迷い心にとっては、浄土は全くかけはなれた世界であります。勿論、浄土は帰る世界であり、その意味では故郷でありますが、余りにも迷いが深く、離れすぎていたので、迷い心にとっては全く新しい世界といわねばなりません。だから全く新しく往く(往生)という形で帰るのでありましょう。

しかし一たび浄土を見出した菩薩にとっては、浄土はかえって自分の本拠になります。菩薩は迷いの世界に自らの身を投げ出して、人類と共に生きることによって、その智慧を磨き具体化するのでありますが、その心の支えとなるものが浄土であります。これは言いかえると、助かった心によって始めて、助からぬ世界に身を置くことが出来るということでありまして、凡夫にとって浄土は心の救いでありますが、菩薩にとって浄土は、穢土(助からぬ世界)に身をおくことのできる根拠であります。だからたえず浄土との交流が行われ、その交流を往覲と呼ばれるのでありましょう。

この偈文の後半は次のようなことが示されています。あらゆる菩薩が根拠としていられるような浄土、無量寿仏の浄土、それは仏道の根源であり、すべての仏を仏として支えるもの、同時にすべての人類を仏にするものであるに違いありません。そしてその世界を説き、それを実現することのできる道を説かれているのがこの無量寿経であります。そこでこの経にあうということはまことに得がたいことであり、この経にあうことができ、そして信ずることのできるのは、よくよくの深い縁によるものだとのべられています。

無量寿仏のたしかさ、それを説かれたこの経典にあうことの得がたさ、このことについてはお経の終わりにものべられていますが、そういう一般的な形式ではつきない意味であるために、わざわざこの偈文の後半でそれを示される深さを思わせられるのであります。

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