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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第21回 蓮如上人御一代記聞書

(1) 深い懺悔をひめた書

このお聖教は、本願寺八代目の蓮如上人がお弟子のかたがたに、おりおりに話された仏法に関するお話や、上人の日ごろの行状(ふるまい)についての記録などをあつめたものでありまして、九代目の実如上人などの方々のお話もまじっております。そしてこの書は、一人の筆者が初めから通して書き上げたものではなく、以前にすでにできあがっていた蓮如上人に関するいろいろの記録にもとづいて、それを整理してまとめられたものであろうと考えられています。

上人の御一生は、政治的或いは武力的な圧迫によって、たびたび危険にさらされた本願寺を命がけでまもり、身をもって親鸞聖人の教えを受け取り、さらにそれを人々のために伝えられたということにつきると思います。従って上人の仕事は、どんな人々にも念仏をつたえ、それによって混乱の時代を生きぬく力を与え、一人一人では何も持たぬ無力の民衆が、念仏によって強力に結び合う、いわゆる民衆の支えとなるような教団をつくり上げることにありました。教化ということが何にもまして大切な仕事になったのは当然でありましょう。

このことを一番具体的にあらわされているのは御文であります。そして特に御文の内容をうかがってみますと、南無阿弥陀仏のいわれを示して、念仏のみが私たちの救われる唯一のまことであり、一日も早く念仏を正しくいただかねばならぬと強く勧めていられます。このために御文の中に「申すべきものなり」「心得べきものなり」「心得うべし」「・・・すべし」というお言葉が目立つのでありましょう。

大体、南無阿弥陀仏ということは一口にいえば「南無せよ」という如来の命令であります。従ってこれを伝える場合に今のような「べきものなり」「・・・べし」という言いあらわし方になるのは当然でありまして、命令的な言い方が気に入らない今どきの人々がよく誤解しますが、念仏の心をそのまま私たちに伝えていられるものとして御文を理解しなければなりません。

ところが、外に強く念仏の心を示していられる御文に対して、「御一代記聞書」は、深い上人の内面の信心があらわされています。これはたとえてみると御文の根であります。根は見えません。しかし枝や葉が立派に繁っていることは、見えない根が深くはたらいている証拠でありましょう。御文に見える念仏について強いことば、おしつけられたようにすら誤解されることばの奥に、わが身の罪に深く頭を下げていられる上人の姿をこの「御一代記聞書」に思い浮かべることができます。これはとりもなおさず親鸞聖人の伝統であると申せましょう。教行信証(聖人の主著、真宗を開かれた根本聖典)を見ましても、念仏のまことを高らかに掲げていられる(行の巻)奥には、わが身を通しての深い懺悔が示され(信の巻)ています。蓮如上人に「御文」と「御一代記聞書」のあることは、親鸞聖人の流れをくみ、その教えである真宗を、身をもって再興された方である証拠と申せましょう。

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