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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第24回 一念多念文意

(1) 念仏より信心の問題

吉水教団(法然上人を中心とする教団)の法友として親鸞聖人が敬愛されていた長楽寺の隆寛律師には「自力他力の事」「後世物語聞書」「一念多念分別の事」などの著書があります。親鸞聖人はこれらの著作をみずから書きうつされたり、たびたび関東の門弟たちにもすすめられたといわれています。いま聖人の「一念多念文意」は、この「一念の多念分別の事」にならい、そこに引かれた経文や高僧方のことばを、正しい念仏の伝統にてらして聖人御自身が解釈されてその意味を明らかにされたものであります。当時法然上人のお弟子たちは、それぞれに自分の考えを主張されたので、いろいろの異義(信心が異なること)が生まれ、あらそいが起こりましたが、その一つにこの一念多念文意の問題もありました。これは念仏を称えることについての一念か多念か、つまり一念でいいのか、それとも多念仏でなければならぬのかという問題であります。

一念の側に立つ人々は、一念仏の中に限りなく利益が与えられるということを、お釈迦さまが無量寿経の下巻の終わりのところで弥勒菩薩につげられたお言葉を根拠として、一たび念仏すればそれで一切は解決されると強く主張されたのでしょう。多念の側に立つ人は、人間は死ぬまで妄念や妄想は消えないのだから、一生涯をつくして念仏にはげまなければならぬと考えるのでしょう。どちらも一理あることです。

しかしこれは結局人間の考えに立って念仏の二通りにはからっているのであって、問題は念仏にあるのではなく信人にあると見ぬかれたのが親鸞聖人であります。これはちょうど歎異抄の第二章で関東のお弟子がたが京都の聖人のところへ持ちこんだ問題と同じようです。

関東のお弟子がたは、念仏しても助からぬので、念仏より他に何かもう一つの隠された特別の道があるのかと問いただしに来たようであります。これは念仏しても一向に助からぬのは念仏に問題があると思ったのでしょう。しかしそれは信心の問題である、助ける念仏に逢うて助からぬのは信心の問題であるとおさえて、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし・・・・・・信ずるほかに別の子細なきなり」と言い切っていられるのが親鸞聖人であります。

聖人はいつでも、念仏を問題にするよりも、頂いた心を問題にしていられます。念仏の問題は念仏に問題があるのではなくて、かえって問題は信心にあります。このことが忘れがちになるところに、助ける法であるところの念仏に対して疑いがおこるのでありましょう。一念多念の問題も、聖人以前は法(私たちを助ける法、念仏)に対する問題であったのでしょうが、それを信心の問題として解明されたところに、この一念多念文意の特徴があると申せましょう。

ここでは一念が大切である証文(証拠となる文章)として十四、多念が大切であることの証文として十の文章をあげていられますが、信心を明らかにされる面で重要な意義をもつものであります。

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