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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第27回 一念多念文意

(4) 成仏から獲信への転回

一念多念文意には次いで無量寿経の教えにもとづいて、信心を頂いた人は弥勒にひとしいということを述べていられます。弥勒というのはお釈迦さまに次いで仏としてお出ましになる菩薩のことでありまして、仏になることを約束された方、必ず仏のさとりを開いて仏となられる方、いわば仏の候補者であります。候補者といっても当選するかしかないか分からないような候補者ではありません。当選確実の候補者でありましょう。つまり信を得た人は必ず仏になる、そのことを強く、弥勒にひとしいといわれるのであります。

これは弥勒になるというのではありません。弥勒のように、という意味で弥勒のごとし、弥勒に同じといわれるのでありますから、弥勒のように間違いなく仏になるということで、やはり正定聚不退の位をもっている意義だと受取らねばなりません。正定聚というのも仏になることにさだまった位、これを言いかえて不退の位と申します。これを印度の言葉になおしますと、阿毘跋致(あびばっち)とか阿惟越致(あゆいおっち)というのですが、人間が失っている自分を取り戻し、二度とそれを失うことのない状態を言います。

道を求める者が、まず出かける時は漠然と仏になろうということが目的になり、そのためにいろいろのことを参考に聞いたり、それによって考えたりしますが、さていよいよ道を進めてくると、今度は具体的に不退を得ようとする努力に変わって参ります。これは漠然としていたのが具体的になった証拠でありましょう。何ごとでも始めは遠いことを望んで出発するものですが、それが次第に進んでくると、目前のものが一つのはっきりした目標となってくるようなものでしょう。これは求道が具体化したことであり、真宗の教えを聞く人でも、始めは漠然と仏になること、或は浄土に生まれることを求めますが、それが進んでくると信心を得ようとする懸命の努力にかわるようなものであります。不退ということは、二度と退かぬということであり、仏にまで進んでやまぬということでありますが、これは人間の努力では考えられません。「絶対に俺は」と頑張る人もありますがそれは頑固というもので、まことにもろいものであります。もろいから余計に頑張らねばならぬので、頑張っていることが、すでに弱さを証明しております。従って不退ということは人間の努力ではなくて、仏の力、やはり他力でありましょう。

そこで聖人は曇鸞大師のおことばを引かれて、「浄土のことば(南無阿弥陀仏)を聞いて生まれたいと願う(信心)ものは、必ず正定聚(不退)になることができる。これは浄土のことば(南無阿弥陀仏)が人間をつくりかえる力をもつからであり、このことは人間のはからいや計算以上であると示しておられるのであります。従って私たちに残された、たった一つの仕事は、不退を得ようという努力ではなくて、南無阿弥陀仏を頂くということ、南無阿弥陀仏を頂いた信心の功徳として不退はおのづから実現するのであります。

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