1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第28回 一念多念文意

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第28回 一念多念文意

(5) 自力を知れば心光賜わる

「一念をひがごととおもうまじき事」についてお話ししてきましたが、もう一つ現生護念の利益について申上げたいと思います。これは終わりに近いところに出ている問題でありますが、ここで聖人は善導大師のお言葉を引いていられます。それは阿弥陀仏を信ずる人があるならば、彼の仏(阿弥陀仏)の光明が常にこの人を照らしまもって、どういうことがあろうとも決して捨てられないという意味のことばであります。これは観無量寿経にあります「念仏衆生摂取不捨」(念仏する人を仏は光明の中に入れて捨てたまわぬ)ということばが、善導大師によって本当に体験され、その体験を通して念仏を頂いた利益をのべられたものでありましょう。

心光というのは心の内面から照らす光であります。言いかえると私たちの心を深いところから支える力であります。人間というものは、さまざまな条件によって動かされています。そういう生き方をしている者を仏教では凡夫と呼ぶのですが、時には悪い状況がやってくると自分を見失ってしまうようなことにもなりかねません。いや余りよい条件がそろっても得意になって自分を見失うこともありましょう。心光はそんな時にどのように取りみだしても思いかえすことの出来るような心の支えであり、得意になってのぼせている時にも、自分をいましめて我にかえらせるような力であります。

聖人はこの心光を無碍光仏の御こころと申しておられます。信心を頂いた者にはこの無碍光仏の御こころが宿ってその人を支えて下さるのであります。心光にまもられることを更に聖人は、異学異見の人々に心が破れることなく、別解別行の人にさまたげられないともいわれます。いろいろの考え方の人や、いろいろやっている人、これらの人々は一言でいえば自力の人ということでありましょう。自力の人がいろいろのことを言われると迷わされます。それは結局、自分の心の中にある自力の心が迷うのであります。

自力の心というのは仲々捨て切れないものなのですが、これは人間の考えていることに見込みをつけること、人間の考えをもとにして、そこから人間の問題の解決をはかろうとすると、人間にはいろいろの違った考えもあり、それぞれの能力も違いますから、意見もまちまち、やることもばらばらになります。家の中でも自力の家はまとまりがありません。まあ力の強いものが押しつけて自分の意見を通すぐらいでまとめるのでしょうが、喜んで協力一致ということはないでしょう。宗教心でもみんな同じ一つの道で助かっていくのであって、自力の力はてんでばらばらですから、最後はみじめに敗れ去るだけだと善導大師も申していられます。

一体、自力が何故駄目かというと、この場合自というのははからいのことであって、はからいや思いには本当の力はありません。力はないのに力があると思う心(これを執といいます)があるだけです。これをもとにしていろいろに考えられたり、さまざまに行われたりするために仏の力をさまたげ、益々迷いを深めています。念仏を頂くことによってこの自力がとんでもないものだと自覚されます時に、仏のはたらきが心光としてはじまるのであります。

▲ ページの上部へ