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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第29回 一念多念文意

(6) 極まることのない信の道

「一念をひがごととおもうまじき事」を一応終わりまして今度は「多念をひがごとと思ふまじき事」についてお話しすることになりました。ここでもう一度「一念多念文意」の問題のもとへかえってみましょう。信の一念を頂いたところに一切は終わるという考え方と、そうではなくて一生念仏を頂いていかねばならないというのと、この対立の問題を解明されようとしたところに「一念多念文意」をおつくりになった動機があるとうかがえるのであります。

信を頂いたところに、浄土はもはやそこに開かれている(即得往生)、人間は終わった、こういう意義はありましょう。だからすべては終わった、こういうことも大切であります。しかしだからといって文字通り何もかも終わった、もう何もかも終わった、もう何も必要でないというのは、かえって信心の意義を忘れたこと、言いかえると自分を忘れたことにもなりましょう。たしかに信は仏の心が実現したことであります。信心は仏でありましょう。だから聖人は「信心仏性」といわれるのであります。しかし次の瞬間、人間は凡夫にたちかえっております。一度得た信心がそのまま固まったような形で人間にあると考えるなら、それは信心を物質化してしまったことでしょう。

私たちは心を純粋に心として考えられないようになっています。どうしても心を物質的に考えるくせがあります。人の親切も物に換算してしまうことがあります。信心や自力なども物のように考えて、貰ったとか捨てたといっている場合もあるようです。我執という心も根強いものでそう簡単に消滅してしまうものではありません。たしかに信心があらわれている時に我執はありません。しかし全く無くなってしまったのではなく、意識の裏側にかくれているのであります。だから信心が消えた時は我執はたちまちにあらわれて参ります。

求道のきびしさはここにあります。なればこそいつでも聞法しいつでも一念に立ちかえらなければなりません。聖人はこれを示すために本願のおことばを「多念をひがごとと思うまじき事」の最初に引いて、「本願文(第十八願)に乃至十念と誓ひたまへるにて知るべし、一念に限らずということを」と申して居られるのであります。
私たちは一生聞いていかねばなりません。そしていつでも一念に立ちかえらなければなりません。一念を卒業するのでなくいつでも一念、これを後念相続といわれるのでありましょう。乃至というのは、それがどれだけ続くか分からないけれども、一生を通じてといわれるのではないでしょうか。どれだけ念仏すれば卒業というのではありません。それで次に「いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数定まらずということを」と数えられるのであります。

十という数は満数といって完全をあらわします。一念の完成を十といわれるのでしょう。幸いにも頂いた一念(信心)、それを一生かかって完成していく、そこに私たちの聞法の一生がかけられているのであります。

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