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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第3回 仏説阿弥陀経

一心不乱に念仏せよ

このお経は数多いお経の中で、私たちに身近な、親しみ深いお経で、真宗のお同行の中に、このお経を読むことのできる人は沢山あります。このお経は、中国で三べん翻訳(インドのことばを中国のことばになおすこと)されましたが、今日、私たちが拝読しているものは、最初に鳩摩羅什(クマラジウ)という人が訳されたものでありますが、法然上人によって無量寿経、観無量寿経と共に浄土の三部経とせられたのであります。

無量寿経は阿難(アナン)尊者がお尋ねしたところから、観無量寿経は韋提希(イダイケ)夫人がお願いしたところから説かれたのですが、このお経は釈尊が、誰からも問われないのに、智慧第一といわれた舎利弗(シャリホツ)尊者を相手に、自ら進んで説かれたのであります。だからこのお経は昔から、無問自説(誰も問わないのに自分で説かれた)の経だといわれています。

これにはどういうわけがあるかと申しますと、このお経は釈尊の御入滅まぎわの説法になっていますが、無量寿経で説かれた本願念仏の仏法が、真に出世本懐(これを説くためにこの世にお出ましになった)であることを、最後にもう一度知らせて、自分が今迄説いてきた教を結ぼうとせられたのであります。そして智慧第一といわれた舎利弗尊者を相手にされたことは、本願の念仏はいかに愚かなものでも肯けると共に、いかに賢いものでも肯かずにはおれないということを示されたに違いありません。

さて内容をみますと、まず極楽浄土について、極楽と呼ばれるわけと、極楽のありさまを説き、第一で阿弥陀仏の名とその功徳について説かれています。そしてその国に生れるためには一心不乱に念仏せよとすすめ、身をもって念仏往生がまことの道であることを示していられるのであります。そして更に、この教えに従うことは普遍の大道であることを、六方(東南西北上下)の諸仏がたが口をそろえて証明していられることを強調し、最後のこの経は濁った末の世のために説かれた難信の法であると結ばれています。

表面的にみると、仏の国に生れるについて、このお経に示されている中心は「執持名号・・・・一心不乱」でありましょう。名号を執持して一心不乱になるというのは、頂かれる法は人間をこえた法であっても、頂く心は人間の努力であります。つまり人間の心で念仏を握る、これを昔から自力といっています。
しかしそれがどういう心であろうと、一度念仏にあうならば、念仏が人間を動かし、人間の思いを破って仏の心を実現せずにはやまぬという、その実現した仏の心は人間の心ではありませんから、難信と示してあるのでしょう。最後には必ず難信を成就する、この深い確信をもって釈尊は、阿弥陀経をもって一代の教えを結ばれたのであります。

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