1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第31回 一念多念文意

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第31回 一念多念文意

(8) 出来ぬを知らせる諸善行

「多念をひがごとと思ふまじき事」を更に読んで参りますと、「凡そ八万四千の法門はみな是れ浄土の方便の善なり、これを要門といふ、これを仮門と名けたり・・・・・・・この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまふが故に、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり」というお言葉が出て参ります。

要門というのはもと善導大師のお言葉でありますが、これはお釈迦さまが観経をおときになったお心をおしはかって、観経の表面にとかれている観仏(心をしずめて仏をみる)道は、念仏に私たちを引き入れるために、私たちの心に合わせてお説きになったものであると受けとられて、要門といわれたのでありますが、どうしてもそうしなければならぬという必要、要はかなめでもありますが必要の要でもあります。私たちを引き入れるためにどうしてもそうしなければならなかった、こういう意味に受けとることができるのであります。

しかし本当のお心は私たちを念仏せしめるところにありますから、観仏の道は仮門である。かりの道であるともいわれるのであります。かりというと私たちはいい加減なものと考えがちですが、そういうものではりません。大事なものを違った形であらわしているのであります。つまり観仏の道を説かれるのは、観仏の成り立たないことを分らせるためにお説きになり、念仏の道以外に私たちの救いはないということを知らせるためである。これが親鸞聖人のお心なのでありましょう。

結局、本願の道、すべてのものを仏にし、そこに絶対の功徳を実現することの出来る南無阿弥陀仏、それにすすめいれるために、いろいろの善業をとかれたが、それらはすべて出来ないことを知らせるためであったということ、そしてそういう心をひるがえして念仏に引き入れる。そういう方便がお釈迦さま一代の(念仏以外の)教えある、このように聖人は受け取っていられるのであります。

方便と申しますと昔からよく嘘だということに考えられています。(嘘も方便などと言います)しかし嘘は方便ではありません。私のような嘘の人間、本当のことが分からず嘘を本当にしている私たち、それを本当の私にして下さる、言いかえれば嘘を本当にするはたらき、それを方便と申すのであります。これはまことのはたらき、まことがまことでない私にはたらいて、私にまことを実現して下さる、それが方便ということであります。

「一念ひがごとと思ふまじき事」のところでは方便は出ておりません。真実ばかりが語られていますが、今、「多念」のところで方便が出されておりますのは、私たちが真実になるのは時間がかかるということ、決して一朝一夕のことではないということ、多念を通して一念が完成されていくということ、そこに方便のはたらきがどうしてもなければならぬということを示されているのでありましょう。有難いのはこの方便でありましょう。

▲ ページの上部へ