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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第32回 一念多念文意

(9) 一生念仏していく道

「多念をひがごとと思ふまじき事」の中から、最後に大切なおことばをもう一つだけ紹介しておきましょう。「凡夫というふは、無明、煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、瞋り腹だちそねみねたむ心多く間(ひま)なくして、臨終の一念に至るまで、とどまらずきえず、たえずと、水火二河の譬(たとえ)にあらわれたり。かかるあさましき我等、願力の白道の一分、二分やうよう歩み行けば、無碍光仏の光の御心にをさめとりたまふが故に、必ず安楽浄土へいたれば弥陀如来とおなじく、彼の正覚の華に化生して大般涅槃のさとりを開かしむるをむねとせしむべしとなり」
多念を否定してはならぬのは、私たちが凡夫であるということであります。だからここに「凡夫というふは」と言われるのでありましょう。前にも申しましたが一念で済むのはさとりであります。しかし凡夫であります以上、さとりなどとは言える義理でありません。どこまでも凡夫であることを忘れない、それは自分を忘れぬということでありましょう。

一口に煩悩と申しますが、煩悩には二通りあると教えられています。煩悩のもとは我執でありますが、生まれながらに具わっている我執と、生まれた後でいろいろ考えたり教えられたりして身についてくる我執との二つがあります。一念のところに、たちどころに始末がつくのは生まれた後で、いろいろ経験を通して身について来た我執であります。生まれながらに具わっている我執は仲々始末がつきません。だから信を頂いても、いつでも我執にもどってしまうのであります。

無明というのは本当の自分がわからないこと、それによって間違った自分を自分だと思いこんでその自分をことごとに振りまわす、これが我執でありますが、これがもとになっていろいろの煩悩がおこります。欲もおこり、いかり腹立ちがおこって参ります。或いはそねみ、ねたみの心も、結局は自分が可愛いから他人の幸せや好都合に平気でおれないのでありましょう。このような、むさぼりの心、いかりの心、そねみやねたみの心は死ぬまで凡夫である以上、やむことはありません。だからいよいよ念仏しなければならないのです。

善導大師は、念仏しながら私たちが歩む人生を白道とたとえられました。人生が旅のように道を歩む姿であるといわれるのでしょう。そしてその行くてにはいつでも、欲やはらだちがつきまとってはなれないのを、水の河(欲)火の河(いかり)が白道におしよせるとたとえられたのであります。しかしそういう欲やいかりのおこる中にあって念仏者は、欲やいかりが縁となり手掛かりとなって、仏に逢い浄土を見つけて、一足一足仏となって完成していく、それが不退の位であり一生念仏だと聖人は教えていられるのであります。

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