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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第36回 愚禿鈔

(4)一大事とは後念即生

さて愚禿鈔をずっと見てまいりますと、ここに一つの大切なお言葉に出あいます。それは「本願ヲ信受スルハ前念命終(ぜんねんみょうじゅう)ナリ、即チ正定聚(しょうじょうじゅ)ノ数ニ入ル、即得往生(そくとくおうじょう)ナリ、即時(そくじ)必定(ひつじょう)ニ入ル」というお言葉であります。

これは真宗の大切な往生ということについて、はっきりと示されたお言葉であると申せましょう。これはもと善導大師のお言葉に「前念命終後念即生」ということがありまして、それにもとづいて親鸞聖人がこれの大事な意味を示されたのであります。後生(ごしょう)の一大事ということばもここから出ているようであります。従って後生という問題も聖人のお言葉を通して正しくいただけるのではないかとも思います。

さて前念命終ということでありますが、命終といってありますから、いのち終わるということですが、一寸見ると死ぬことのように受け取れますけれど、念の命終ですからただ死ぬということでもないでしょう。私たちは妄念妄想というものをもとにして生きて居ります。妄念妄想ははからい、自力であります。だからたとえ仏になることを求めましても自力であるならば、妄念妄想で仏になろうとするのですから無効であります。

妄念妄想は破られなければなりません。破れるというのは無くなることではなく(無くなるものではありません。凡夫ですから)、妄念妄想と知らされることであります。如来のお心を頂いて南無と頭の下がるところに、妄念妄想の他にない自分を知らせて頂くときに、始めて妄念妄想は破れるのであります。本願を頂くときが前念(妄念妄想)の生の終わりである。かように示されてあるのでしょう。迷いの生を終えるところ、そこに浄土の始めがある。これが後念即生であります。即得往生ということは、大無量寿経に生きているお言葉でありますが、浄土が求められるところに浄土が開かれるというような意味があらわされて居ります。これが後念即生(後生)であるといわれるのでしょう。本願を頂くところに妄念の生は終わり、浄土が開けて浄土への歩みが始まる。信心による内面の心の展開を教えられたものと、頂けるのであります。

このことを更に言いかえてみると、人間の心(妄念妄想)に死して、如来のお心に生きる。信心(一念とお経ではあらわされて居りますが)信心の前面は人間の心が死ぬこと、後面は如来の世界への復活、このような信心の前後という、言いかえれば一念の前後というような大切な構造がおしえられているのでありましょう。私たちはいつでもまた妄念にもどりますから、いつでも信心に立ちかえらなければなりません。そういう人間のあり方を正定聚とか必定というのであります。

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