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  5. 第37回 愚禿鈔

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第37回 愚禿鈔

(5)他力に生きる人の深さ

愚禿鈔の上巻で最後にもう一つだけ出しておきましょう。それは二機対(にきたい)ということであります。機というのは人間のことをあらわしますが、ただの人間ということではありません。仏さまと関係をもった人間のことであります。この人間に二種類あるということ、それが二機ということ、そしてそれを比べてあるのが対ということであります。そこで先ずどんな機があるのかということについて、「一乗円満(いちじょうえんまん)の機は他力なり。漸教廻心(ぜんぎょうえしん)の機は自力なり」と二つをあげてあります。

一乗というのはどんな人間にでもすぐさま仏があらわれてくる教えを申します。これはつまり本願のことでありまして、円満というのは南無阿弥陀仏に一切の仏の徳がこもっているということ、そういう教えを仰ぐ人は他力に生きる人でありましょう。漸教というのは永い時間をかけて、ようやく仏があらわれてくる教え、この人は結局そういう道を捨てて本願にあわなければ助からぬのでありますから、自力の心をひるがえさなければならない、それで廻心の人といわれるのであります。

人それぞれに違った道を歩きますが、大きく分けると他力に生きる人、自力にとじこもる人と二種類に分かれましょう。この二つの人間のあり方を比べると、そこに大きな違いのあることを十八通りに分けて示しておられるのでありますが、その中から大事なものを拾ってみますと、先ず最初に信疑対というものがあります。他力に生きる人はどんな人にもはっきりした信心が与えられる。それは仏の心が実現するからであります。普通、他力の信心というと、ただ他力を信ずる信心と思われていますが、他力を信ずることがそのまま他力であるというのが、他力の信心の深い意味であります。他力でなければ他力を信ずることは出来ないのです。人間が信ずるといえば、必ず疑いがまじっているに違いない、というのが聖人のお考えであります。

次に賢愚対(けんぐたい)というのがあります。他力の信心に生きる人は表面からみると、何でもない人、つまり凡夫でありますが、その内面には深い仏の智慧がはたらいていて、人間世界を見極める眼があいております。自力の人には知識としてはいろいろさとりのようなことを心得ていても、本当の智慧がありません。人間の知識にとまるのでしょう。だから表面的に賢いようでも、内心は愚かであるといわれるのであります。

もう一つだけ、実虚対(じっこたい)というのを申しましょう。実というのは本当にわたしたちに実現することであります。虚というのは教理としてはそうなるはずだが、そうはならないということでしょう。つまり話だけあるということ、それに対して他力は如来の力で如来を実現することですから、当然仏が実現するに間違いありません。他力の確かさが思われます。

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