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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第38回 愚禿鈔

(6)如来の他にないまごころ

さて今度は下巻に入りましょう。ここで先ず目につきますのは、善導大師が観経を解釈された御文を掲げてあることであります。そしてこのお言葉の大事なことは、親鸞聖人が教行信証(きょうぎょうしんしょ)で信心を明らかにされるところに引いておられることで分かります。

観経の中に、浄土へ生まれることの出来る心として三つの心が挙げてありますが、その第一に至誠心(しじょうしん)とうのがあります。それを解釈される善導大師のことばがここに引かれているのであります。先ず至誠心ということを大師は、至は真であり誠は実だといわれます。つまり真実ということ、分かりやすくいうとまごころ、まことの心ということでしょう。先ずまごころがなければ浄土へは生まれられぬとういのが観経でのお釈迦さまのお示しであります。

まごころが大事だということは誰でも分かっているし、よく人にも申します。しかし軽々しくそういうことを言う人は、存外まごころというものが分かっていません。まごころというものは口でいうほど生やさしいものではありません。観経の至誠心というこの言葉を御覧になった大師は、これは大変なことだと感じられたのであります。
大師はこう言われました。うわべだけはきれいなことを言ったり、すました顔をして、心の中ではいつわり心をもってはならないが、これは容易なことではない、何故かというと人間の心の中には、むさぼりやいかり、邪な心やいつわり、或るはうまく人をだまして得をしようというこころがどこへでも広がっている。これはたとえてみると全く蛇やさそりのような心。これがあるから、言うこと、すること、思うことすべてがうそになっている。たとえ善をしても本当の善でなく不純なものになってしまって、真実にはどうしてもならない、といわれるのであります。まことに厳しいお言葉だと思います。

だからまごころになるのは容易ではありません。大師は更につづけて、頭におちた火をはらうように一生懸命にやってもみな不純な善である、この心で浄土へ生まれようとしても、とても如来が浄土を荘厳された心には及びもつかないから、絶対に不可能なことである、よくよくの決意と努力でない限り浄土へ生まれることはできない、ときびしくいましめながら浄土へすすめていられるのであります。

この善導大師のお言葉を通して親鸞聖人は観経の至誠心ということを頂かれて、至誠心というものは、人間には絶対にないことだと受けとられたのであります。人間はともすると一生懸命にさえなれば、まこと心にもなれると思う心があります。だから軽々しくまごころとかまこととかいうのでしょう。これは自分を知らぬからであります。聖人は本当に如来のお心にあわれて、始めて自分にはまことなどというものは毛の先ほどもないことを知られたのであります。聖人がまことがないと知られたのであります。聖人がまことがないと知られたのは如来のまことによって知られたのでありまして、聖人が、自分にはまことがないといわれるのは、如来のまことが聖人を通してあらわされたお言葉なのでなりましょう。ここに始めて至誠心は如来のお心だと頂かれたのであります。

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