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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第39回 愚禿鈔

(7)信心の具体化二種深信

至誠心(まごこころ)について善導大師のお言葉を引かれた次に、さらに深心(じんしん)についてのお言葉を引いていられます。これは観無量寿経の中でお釈迦さまが、浄土に生まれることの出来る心として、至誠心、深心、回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの心を示していられますが、この心についての善導大師の深い解釈を親鸞聖人はここに引いていられるのであります。

これは大切ですから先ず本文を掲げておきましょう。
「深心とうは、即ち是れ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには決定して、自身は現に是れ最悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常にしずみ、常に流転して、出離(しゅつり)の縁有ること無しと深心す。二つには決定して、彼の阿弥陀仏、四十八願をもて衆生を摂受したまう。疑無く慮り無く彼の願力に乗ずれば定んで往生を得と深心す」

これは昔から二種深信(にしゅじんしん)と申しまして、信心の具体的な内容を示されたものといわれております。先ず最初の深心は昔から機(き)の深信と申しますが、機というのは人間のこと、とりもなおさず私のこと、それを「自身は」といってあります。「現に是罪悪生死の凡夫」罪悪とはこの場合我執でありましょう。執というのは無いものを有ると思うこと、我(が)は無いにもかかわらず有ると迷うことであります。これにもとづいて私たちはいろいろのことを言ったり、さまざまな行動をしたりしますが、これを業(ごう)といいます。そしてその結果苦しんでいますが、そういう状態を生死(しょうじ)とも言い、流転ともいうのであります。

しかもこの状態が今にはじまったことではなく、教えることの出来ないような古い昔からというのを「曠劫(こうごう)よりこのかた常にしずみ常に流転して」といわれるのでありましょう。しかも未来に向かっては、この生死の状態から抜け出る機会は絶対にないということ、それが「出離の縁有ること無し」ということ、そういう自分が本当に肯けた、そういう自分に頭が下がったのを機の深信というのであります。

これを親鸞聖人は、自身を深心することであり、自利の信心ということであるといわれます。自利ということは自分が助かるということでありましょう。自分がはっきりわかることが救われたことであります。私は駄目だから阿弥陀仏に助けられるのだというのではありません。それは分別(思い、はからい)に過ぎません。救われる前に私は駄目だというのは自分で勝手に自分を決めることで、たかだか浅い反省でしょう。だから或る時はそんな気になっていますが、調子のよい時はそんなことも消えて了って思い上がったりするものです。機に深信は人間の心でなくて、私の上に実現した如来の懺悔であると申さねばなりません。だから深信というのでしょう。
次の深信は法の深信といわれますが、これは私の上にそういう深い懺悔を実現することによって私を救おうとされる如来の心、そのお心に同感すること、一つになることで、それを「疑いなく慮りなく」とあらわされます。法の深信を聖人は利他の深海といわれますが、利他の如来のお心、そのお心と一つになるのでありましょう。

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