1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第40回 愚禿鈔

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第40回 愚禿鈔

(8)浄土求めずにはおれぬ心  

次いで愚禿鈔では回向発願心(えこうほつがんしん)ということについて出ております。

これは前にも申しました通り、お釈迦さまが観無量寿経の中に、浄土へ生まれることの出来る心について、三つの心を示されましたが、三つの心というのは至誠心、深心、回向発願心であります。至誠心と深心についてはすでに申しましたから、今回は回向発願心について聖人が示していられる一段のところを御話し致しましょう。観無量寿経のこの三つの心について、非常に深くこれを受け取られた方は善導大師であることは前にも申しましたが、この一段もやはり善導大師の仰せを、更に深く受け取られたものであります。

廻向という言葉は真宗にとりましては大事な言葉でありますが、そのために意味をかんたんにはあらわすことは出来ません。まあ言ってみればふり向けるということ、言いかえると心が或る方向に向かってはたらくということ、発願が願いをおこすということでありましょう。聖人はこの廻向発願心を二通りに分けていられますが、第一には仏教で普通に考えられている受け取り方を出していられます。今まで長い間、聞法したり、いろいろ実践したりして心をみがいて来た。それによって得たところの清らかな広い心を、幸福とか、人間世界の中にあるすぐれたものを得ようとするところに向けるのではなく、専らそれを自らの信心の力をし、その心でひとえに浄土へ生まれようと願う、言いかえれば聞法実践で得た心を、浄土へ生まれようとする、ひたすらなる願いを完成する力としてふりむけるということであります。仏の教えからいって、いろいろねうちのあることをつみかさねて来たが、その全部をつぎこんで、ただひたすら浄土に生まれようと願う、そういう心を廻向発願心といわれるのであります。

こういう心は大事なもので、ひたむきに仏の世界へ生まれようという心がなければ、仏の世界へ生まれることなどは思いもよらないでしょう。私たちは世界が苦しみで一杯だと言いますが、この苦しみの世界を求めているのです。公害のある世界も、結局は人間がよってたかって作ったものだといえないでしょうか。都合のよいことなら少々間違ったものでも取り入れようとし、都合の悪いものは大事なものでも放り出そうとする心、これは浄土を願う心とは全く反対の心であります。この心は、つまり穢土(えど、苦しい世界)(生まれたいと願う心でありますが、これに中々気づきません。こういう心の間違いに気づき、この心をやぶってひたすら浄土を求める心、それが回向発願心といわれるものであります。

しかしこの心は聖人が注意していられるように、自力の心であります。自力の心というのは人間を立場としてそこから出発するのでありますが、人間を立場としてそこから人間を破っていく、これは大きな矛盾でありましょう。聖人は回向発願心をここから見直され、これは人間の心ではなく、全く如来の廻向発願したまう心である、なればこそ間違いなく浄土に往生することが出来るのである、と頂かれたのが第二の意味であります。

▲ ページの上部へ