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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第41回 愚禿鈔

(9)真の善智識に会う 

前回の回向発願心の済んだ後に善導大師は、有名なたとえを出していられます。これは古来、二河(にが)の譬えといわれ、このたとえは信仰の道に歩む人のために大きな力となって参りました。これは求道者を旅行者にたとえ、求道者を取りまく環境を、旅人に対する川とか道とか、盗賊や猛獣にたとえてあるのですが、その中に人の居らない、はてしない曠野にある湿地帯が出ております。この譬えの意味を善導大師は御自身で解釈して、これは常に悪友に従って、真の善知識に逢えないことであるといわれます。

わが聖人はこれを愚禿鈔に引かれて「常に悪友に従うとは、悪友とは善友に対す、雑毒虚仮(ぞうどくこけ)の人なり」といわれています。観無量寿経に阿闍世(あじゃせ)が、父を殺す大逆を犯した原因について、調達(じょうだつ、提婆達多―だいばだった)悪友の教えに随順して、とあらわされていますが、提婆達多は常に野心を抱いて釈尊の地位をねらっていた人でした。罪を犯した当時の阿闍世は十八位でなかったかといわれていますが、苦労のないお坊ちゃんで、単純だったのでしょうか。とにかく人間を正しくするのも、ゆがめるのも教えによるということがこれで分かります。

善友というのは、これも観経で示されているように耆婆(ぎば)のような人です。この人は釈尊の教えをよく聞いた求道者でありました。阿闍世が母まで殺そうとした時に懸命になってそれをとどめ、後に阿闍世が罪の報いによって大変な苦しみにせめられた時に、すすめて釈尊のところへ導いた人でありました。観経の終わりのところに人間をいろいろに分類して、どうにもならぬ人間の姿が最後にあらわされていますが、この人が臨終に苦しんでいる時に、念仏をすすめる人を善友といってあります。

さて聖人は「真ということばは、仮(け)に対し偽に対す、善知識(ぜんじしき)とは悪知識(あくちしき)に対するなり」といわれています。仮というのは真のようだがそうではない、偽というのはにせもの、人をだますものということ、善知識とは人を善導する方のことでありますが、仮とか偽というのは善知識らしく見えていて、実はそうではないもの、何も教えないならまだ無害ですむけれども、人をとんでもない方向へ導くこともあるのでしょう。真に対して仮とか偽とかいわれるのは、いかに善知識が大切であるかということ、そして善知識には中々逢えるものではないということに注意していられるのであります。

次いで聖人は真の善知識と悪知識とを詳しくわけられています。真の善知識について、正善知識、実善知識、是善知識、善善知識、と挙げて善性の人なりとおっしゃっていられます。更に悪知識について、仮善知識、偽善知識、邪善知識、虚善知識、非善知識、悪善知識、と挙げて悪性の人なりと注意していられますが、このように詳しく善知識を分類していられるのはどんな知識にあうかで勝負はきまるということなのでしょう。

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