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  5. 第44回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第44回 入出二門偈

(3)願いは他力の心 ~ 還相への展開(下)

還相回向(げんそうえこう)というのは、迷いの世界に向かって心がはたらくことであります。私にとって還相という問題は、たとえば我が子が仏法を聞くようになってほしい、念仏を頂いてほしい、そういう問題になります。これは何も特別なことではなくて、ごく当たり前のことでしょう。しかしこれが中々容易ではありません。そのためにあきらめられたような気になることが多く、余りやかましく、しつこく言うと、子どもが反発して親子の仲まで変ることになりはしないだろうか、という心配もともなって、結局、分からぬもの言っても仕方がないから、まあ自分だけでも詣らせて貰おう、こういうことになって教団が先細りになって来たのだと思います。

困難なために願いが消えるとしたら、それは本当の願でないといわれます。本当の願いには必ず力がともなうものだと教えられています。そうすると本当の願いというものはどういうものでしょうか。これは私たちには無いものかも知れません。何故かというと、私たちにあるのは欲です。欲というのは、結局、自分の都合のよいことを願うもの、これもほしいと数が多くなります。願いというのは一つのものです。四十八願とありますけれども、迷っている私たちを目ざめさせたいという願いであって、そのためにいろいろの内容が展開されてくるのでしょう。

仏法も聞いてほしいし、この親も大事にしてほしいといことになると欲でしょう。だから末通らぬのであって、この親のことはどうでもよい、ただ仏法を聞いてほしいというのは願いになります。願いは自分の都合を考えない純粋なものです。だから力が出てまいります。しかし私たちにはこういう願いは出て来ません。そこで念仏を頂く以外道がないのでありましょう。念仏を頂くことによって私の上に往相の信心が生まれることは前に申しました。その往相の信心が、自分をして往相せしめたところの、如来の還相のお心。助けんと思し召し立ちけるお心を感得するのであります。その時に如来のお心に動かされて立ち上がります。私がそういう心をおこすのではありません。如来のお心に動かされるだけであります。

子どもが仏法を聞くようになってほしい、この願いはそう簡単に望めそうもありません。永い眼で見なければならないと共に、いろいろのてだても必要でしょう。しかし人間の心はこれにくたびれ、投げ出してしまいたくなるのです。だが考えてみると、如来は私の目ざめることを永い間、待って下さっていました。またそのためにはいろいろの手だてをつくして下さったに違いありません。私の気づかぬところで。そのために今日あることを思うと、そのお心に動かされて子どもを待つことが出来、いろいろの苦労をいとわぬ心にはたらかれる筈であります。しかし、もはやこれは私の心ではありません。何処までも他力なのです。

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