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  5. 第45回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第45回 入出二門偈

(4)無量寿経こそ経中の経

さて入出二門偈の始めの方に「世親(せしん)菩薩は大乗修多羅(だいじょうしゅたら)真実功徳相に依って、一心に尽十方不可思議光如来に帰命したまへり」といわれています。大乗修多羅というのは無量寿経のことであります。大乗というのは、どんなものでも仏になる道ということであります。それが示されているお経、修多羅というのはお経のことであります。しかしすべて大乗経というものは、私たちが仏になることについて説かれています。何も無量寿経だけにかぎったことではありません。にもかかわらず親鸞聖人が、無量寿経こそ真実の教であるといわれるのは、どういう意味でありましょうか。

たしかに一般の大乗経典は、みんな仏になれるとか、すべての人間に仏になる種があるとか、あるいは仏のさとりはこういうものだとかが説かれています。しかし残念なことには、そのお経によって仏になった人は誰もありませんし、仏のさとりを開いた人も無いようです。聖人も自ら比叡の山で二十年間の厳しい修行をされましたが、遂にさとりを開くことは出来ませんでした。だから山を下りられたのでしょう。そして法然上人の許で念仏に逢い、始めて目ざめられたのであります。この念仏が教えの語りであらわされているのが無量寿経であります。

天親菩薩(ここでは世親菩薩といっていられますが、これは新しい翻訳であります)はこの無量寿経を真実の功徳があらわさているおきょうであるといわれました。功徳というのははたらきということ、仏の功徳は人間の上にはたらきます。真実功徳というのは真実がはたらくということ、真実があらわれるということ、どこへあらわれるかというと、真実でない人間の上に真実をあらわしてくることであります。結局、真実功徳というのは念仏のことであります。

念仏が無ければ、すべてが仏になるといっても、みんな仏になる種をもっているといわれても、また仏のさとりはこういうものだと示されても、それはすべてが理想におわりましょう。大といっても、ただそういうだけで、ほんとうの大乗にはならないでしょう。真に大乗といえるものは、すべてを仏にすることの出来る具体的な法、念仏が示されている無量寿経こそ、大乗経といえるのであります。そういう意味で聖人は、特に大乗ということばをつけ加えられたのでありましょう。

天親菩薩は竜樹(りゅうじゅ)菩薩と肩をならべて、千部の論師(ろんじ)といわれています。特にその中心教学は唯識(ゆいしき)教学といって、一切は心である、迷いの世界は迷った心でつくられたものであるという、仏教にとって中心思想ともいうべきものを深く学ばれましたが、特に迷い心を深く知られたのは、やはり無量寿経によって示された念仏を深く頂かれたからに違いありません。天親菩薩の深い教学の根には念仏があったのでしょう。

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