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  5. 第46回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第46回 入出二門偈

(5)よしあしは皆分別

次いで眼につくお言葉は「無碍(むげ)の光明は大慈悲なり」ということであります。光明は元来、仏の光でありますから、天親菩薩は無碍光如来といわれました。無碍ということは仏の光の中でも代表的なものであります。無碍というのはさわりの無いこと、大体さわりというものはよしあしの分別から生まれて参ります。
私たちが今日、いろいろの状況のもとで、いろいろの出来事にあっていますが、これを業(ごう)と呼んでいます。そして私たちはこの業について、よしとかあしとかの分別をして苦しんでいるのであります。健康はよいもの、病気はわるいもの、金のあることはよいこと、貧乏はわるいこと、いろいろの状態をよしあしに分けて、よしといって喜ぶかわりに、あしといって苦しんでいますが、すべては無常ですから、よしといった裏にはあしということがつきまとって参ります。

親鸞聖人は「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」(歎異抄)と、このよしあしを捨てられました。それは仏の無碍の光、他力にあわれたからでありましょう。だから「善きことも悪しきことも業報(ごうほう、業によってかえってくること)にさしまかせて、偏へて本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)ともいわれたのであります。ここにどんな業にも無碍であるような世界が開かれてあります。分別さえはなれれば、(この分別を真宗では自力といわれていますが)何時でも無碍であります。

この書は前にも申しました通り、入出二門偈という名であらわされていますように、浄土に向かう往相(おうそう)と、穢土にかえって仏法の無い場所で仏法をあらわすという還相(げんそう)と、つまり浄土に入るのと浄土から出るのと、二つの問題が中心となっております。浄土へ向かうのは涅槃(ねはん)の方向へ、穢土にかえるのは生死の世界への方向でありますから、大きな矛盾をはらんでいます。従ってこの矛盾に打ちかたねば、入出二門偈は不可能でありましょう。

この矛盾をつき破る道はただ一つ、生死と涅槃が、二つのまま一つであるということが知らされる以外にはありません。生死は悪いもの、涅槃はいいもという分別が破れて二のままが一である、生死も涅槃も平等だと分かる、これが無碍ということであります。そしてこれは私たちにはありません。無碍光如来の徳が浄土の功徳として開かれている、その浄土にだけあることであります。だから私たちは浄土に帰入する以外ありません。そこにはじめて穢土にかえり得る無碍の智慧が与えられるのであります。

天親菩薩はこの浄土のもと、浄土は何から生まれたかということについて、浄土は大慈悲から生まれた、浄土の根は大慈悲であるといわれました。仏が一切の苦しんでいるものに智慧の眼を開かせたいと願われる心、その心をもとにして浄土が開かれましたから、浄土によって無碍の光にあうのであります。

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