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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第47回 入出二門偈

(6)凡愚でこそ本願に遇う

天親菩薩が作られた浄土論にもとづいて、宗祖は入出二門偈をつくられましたが、浄土論で中心になる大事な点は、「仏の本願力(ほんがんりき)を観たてまつるに、遇うて空しく過ぎる者無し、よく速やかに、功徳の大宝海を満足せしむ」というお言葉であります。どこのお寺でも本尊の向かって右側に、御開山聖人のお姿を掛軸にしておまつりしていますが、お姿の上には、この言葉が書かれています。聖人はこの言葉を一生涯胸にきざみつけ、いつも思いかえしてすごされたのではないでしょうか。

本願にあうならば、誰でも空しく過ぎることはない、必ず仏の功徳の一切が、本願を頂いた人の上に、速やかに満たされるであろう、こういう意味であります。これは天親菩薩自ら本願にあわれた体験から生まれたことばであり、浄土は本願の世界、本願にあうところに開かれる世界であることを示されたものであり、言いかえれば浄土は本願にあうことによって内に開かれる精神世界であるということでしょう。
もともと浄土論は五言絶句(ごごんぜっく)といって、五文字を一句にしてそれが四つ集まって一つの歌の形になっていますが、聖人の入出二門偈で(これは正信偈もそうなっています。日本人のつくったものにはこれが多いのです)、七文字一句になっています。だから二字ずつ多くなりますから、二字つけ加えられています。その中でも特に目立ちますのは、遇無空過者(遇うて空しくすぐる者なし)というもとの言葉に凡愚という字を加えて、凡愚遇無空過者としてあるところであります。

これは本願にあうのは誰があうのか、天親菩薩の言葉はそれが示してありません。それを誰でもない、凡愚があうのだということで凡愚とつけられたのでしょう。凡はありふれた人間、どこにでも居るような、日常生活におし流されているような人間。愚はおろか、本当のことを知らず、あれこれと迷っている人間のことでありましょう。そういう凡愚が本願にあうということ、それと更に大事なのは本願にあうて始めて、人間は凡愚にかえるということでしょう。人間というものは己惚れの強いもの、これでもまんざら捨てたものでないとか、あの人らとは一寸違うとか、中々思い上がっているものであります。そういう私がかけ値のない私に素直に帰ることが出来るのは、本願に遇うたからであります。

天親菩薩はただ遇うといわれました。それに対して聖人は凡愚遇うとつけ加えられました。自らの上に本願を頂かれた具体的な体験の結果があらわされているように思います。教行信証の信の巻を見ますと、「誠に知らぬ」といって自分の浅ましい姿を告白していられます。誠に知らぬというと、一般には本当に分かったという意味だけに受けとられますが、聖人が誠といわれるのはいつも如来の誠ですから、如来の誠が自分の上に浅ましいという自覚となったということ、凡愚という自覚も他力をあらわされるのでしょう。

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