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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第48回 入出二門偈

(7)拝む姿こそ人間本来の形

この偈文は入出二門偈と呼ばれていますが、入出二門偈というのは浄土の門でありまして、入るについて四つの門、浄土から出るについて一つの門、合わせて五門ありまして、入るについて四つの門、浄土から出るについて一つの門、合わせて五門ありまして、この五門は五念門といって、浄土がこの五念門を修行することによって出来上がった、言いかえれば浄土をつくられた行(実践)であると説かれております。五念門の念は、やはり念仏のことでありまして、念仏の行の内容でもありますから、五念仏門といってもよいので、礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門、廻向門、という五つからなっています。そしてその念仏が一つの念仏であります。

今回は第一の礼拝門についてお話しましょう。これは身業(しんごう)といって、礼拝というのは身でなされる行であり、拝むという形であらわされることであります。或る人がこういうことを言います。「別に自分たちは何も拝む必要は感じない。何となら自分ほど尊いものはないと思う。いやしくも人間が万物の霊長である以上、拝むなどということは、極めて卑屈なことであって、むしろ我々にとって大切なことは、何も拝む必要のないようになるこそ、心掛けるべきであり努力すべきである。」たしかに変ないかがわしいものを、迷い心で拝んでいる人よりは、この人の方が、よほど立派だとも言えましょう。

しかしこの人が考えている拝むということが、果たして正しいかどうかということです。私はこの人は、拝むということを自分なりに考えて、その考えた拝むということを否定しているだけで、本当に拝むということの意味を知りませんから、拝まないというよりも、寧ろ拝めぬのでないかとも思います。都合のよいことをたのむために拝むのは別として、真に拝むということは人間の意識的世界だけからは出てこないことであり、日常性に埋没してそれに満足しているときにはある筈がないと思います。真に拝むべきものが見つからなければ拝むことは出来ないでしょう。だから拝むということは卑屈どころの話ではなくて、拝むことの出来るものがこの人生に見つかったという、極めてすばらしいことなのであります。

拝むということが成り立つためには、先ず気のつかなければならないことがあります。それは、礼拝の本式な姿を印度では五体投地(ごたいとうち、身体全体を投げ出して拝む)といいますが、これは自分の上げていた頭を、踏んでいた足の位置におくことであります。思い上がっていた心が、自分の分際(自分はこれだけのものだということ)に気がついて、それにかえることであります。これは理性からみれば屈辱のようですが、本当の私らしい私にかえった姿であって、そういうことから礼拝ということは真に人間らしい姿でもあります。またそういう自分の本当の姿を照らし出して頂いた真実、私が知らされることによって私を知らせる真実を始めて見つけることが出来た、これも真に礼拝すべきものでありますから、拝むことが出来たと申せましょう。

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