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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第49回 入出二門偈

(8)自己否定から湧く感動

浄土へ生まれる実践(行)は、それによって浄土が開かれた実践以外にはありません。そして浄土が開かれたのは法蔵菩薩の五念門(五念仏門と申してもよいでしょう)であるというのが天親菩薩の御了解であり、親鸞聖人もそれを頂かれてここで明らかに示していられるのであります。

これは前にもお話しました礼拝というものが、この人生にまことを見つけ、それによって自分の固い心が砕かれて、自分の全体が投げ出された姿でありますが、そこに拝むべきものと、拝む人と、この二つが出来上がることで、礼拝は二つの世界であります。その礼拝をくぐって聞かれる世界が讃嘆の世界であります。人間が真に人間にかえった(自分を自分以上に思いあやまっていた心がくだかれた)ところに、仏が仰がれ、そこに初めて夢にも考えられなかった世界にふれるのであります。

その世界はもう光の世界、一点の暗さのない世界であります。暗さを内に、つまり自分を見出したのが礼拝であるならば、光を見出しその光に包まれた姿が讃嘆でありましょう。拝むべき世界に却って自分が包まれていたという、こういう世界を仏教では一如(いちにょ)と呼ばれています。人間というものは自分を中心にいろいろ考え、さまざまなものを自分なりに見ています。こういう人間にとって、エゴイズム(じぶんさえよければいい、利己主義)は、悲しいことながら遂にのがれられぬ運命でありましょう。これが人間の暗さのもとであり、この状態から脱しきれぬ以上、人間には遂に光はありません。

限りなく人間が自由を切望し、ことごとに人間が解放を求めるのは、人間が何かに縛られているからでありましょうが、それはあたかも外から人間を縛っているように見えますけども、実は外に見える束縛は、内にエゴイズムに縛られている反映であります。したがって真に光の世界、解放された世界を見出すために、我に対する執着が砕かれること、言いかえれば自己否定の門をくぐらなければなりません。

自己否定というと、何か消極的な道、弱者の悲鳴のように聞こえますが、むしろ逆に本当の意味の強さ、自分にうち克つことの出来た喜びを得る道であります。他に勝つことはたとえ困難であっても、見込みのないことではありません。しかし自己にうち克つことは、困難を通りこして不可能に近いことでしょう。それだけにまた、それをなしとげた時の喜びも大きいのであります。

讃嘆というのは、礼拝によって見つかった光の世界に自分がとけこんだこと、人間が本当に立つべき場所を見出したことであります。立つべき場所が見つからなければ、人間は自分に立つより仕方がありません。自分を立場とすれば、自分に閉じこもり、結局、我執の奴隷になるより仕方がないでしょう。光が見出され、それが自分の立つべき世界であることが知らされた時、人はその光にとけこみ、固執していた我は消えていく、そういう状態からくる感動が讃嘆であります。

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