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  5. 第50回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第50回 入出二門偈

(9)本当の願いはただ一つ

礼拝の門をくぐり、讃嘆の門をくぐると、そこに作願(さがん)の門が開かれています。作願というのは願いをおこすということで、何を願うかというと、浄土に生まれたいと願うことであります。しかし願うということは、いろいろ願うということではありません。いろいろなら、それは欲であって願とは申せません。願いというのは、ただ一つのものであります。阿弥陀仏の四十八願ということがあります。しかしそれは私たちを救いたいという、一つの願いを四十八の内容で示されたものでありますから、やはり一つの願いでありましょう。

この仏の一つの願い、これに動かされて私たちも一つの願い、ただ浄土に生まれたいという願いがおこるのであります。願いが一つであるということは、またその願いが純粋であるということをあらわしています。純粋でない場合は、やっぱり欲になってしまって、実現しないし、無理に実現しようとすれば無茶な方法や手段がとられるでしょう。このたびの赤軍派の事件を見ても、驚きと傷ましさを強く感じさせられますが、どうしてこういうことになったのか、考えずにはいられません。非人道的な無茶な行動と、みなが口々に批判していますが、その通りだという気もします。

しかし始めから無茶をやろうというのでもなかったのでしょう。後では段々ひどいことになりましたが、やはり始めは何かの願いがあって、それを実現しようとしたのでしょう。しかしその願いが純粋でなかったのではないかと思います。願いが純粋でないと、行き過ぎが起こったり、しまいには何を願っているのか分からぬような、とんでもない方向に走るものなのです。これは赤軍派の話だけではなくて、私たちもえてして陥りやすい危険ではないでしょうか。

ただ一筋に浄土へ生まれたいという願いに生きる、この願いを純粋にさせているものは、先にくぐった礼拝門と讃嘆門でありましょう。特に礼拝門は前にも申しましたように自分の間違いの姿に頭下がったことですから、これが願いを純粋にする大きなはたらきを持っております。

従って礼拝の門をくぐらなければ願いは純粋にならないのであります。

願いの純粋さを天親菩薩は一心専念と申されました。それを親鸞聖人はここでも引いておられ「一心専念にして彼(かしこ・浄土のこと。浄土を彼国とか彼岸と申します)に生まれんと願ずれば」といわれて、その心は浄土の内奥にふれることが出来ると示していられるのであります。

一心専念とは心が他に散らないこと、親鸞聖人の立場からいえば、この心は如来のであるといわなければなりません。聖人は比叡山の山で一心専念(天台では心をしずめること)を修行されていたのですが、遂に出来なかったということであります。念仏によって始めて如来の一心専念を頂かれたのでありましょう。如来の心だから如来の世界にふれることができるので、如来の願を頂くとき、始めて純粋な願が私にも生まれるのであります。

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