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  5. 第51回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第51回 入出二門偈

(10)観察とは自分に気付く

作願門をくぐると観察(かんさつ)の門が開けて来ます。観察というのはものをよく見きわめることで、科学の実験などにも必ず観察ということがおこなわれますが、これは外を見ることで、仏教の観察は内観であります。それは何かというと人間は苦しんでいる、その苦しみを解決する道は自分をふくめて人間というものが問われなければならないからであります。

大体、私たちは普通苦しみというものを外に考えます。自分というものがあって、苦しみの材料になるようなものが自分以外のところにあって、それが自分のところに来る、そこに苦しみが起こると考えています。しかし若しそういうものだということになると、私たちにとって苦しみから逃れることは不可能に近いことになるでしょう。ものごとが外から来る場合は偶然ということで、人間の苦しみは運命だといわねばなりません。運命ならそういうものが来ないように祈るしかないということになります。

しかしよくよく観察してみると、苦しみはみんな自分がつくっているようであります。私たちは何かについて苦しみと言います。しかし何かを苦にする心、そこに問題はあるようです。問題が浅いうちは何かを問題にしますが、問題が深まってくると自分が問題になってくる筈です。たとえば財布を落としたとします。最初は落とした財布について苦しんでいますが、その苦しみで眠れないようなことになると、いくら考えても帰ってこない財布をあきらめられない自分が苦になってくる筈です。苦しみは自分の心が始末がつかないところにあると言えるでしょう。

大体私たちはいつも自分を中心に世界を見ています。自分なりにものを見、自分なりにものを考えて、広い世界を狭くし、明るい世界を暗くしているのです。そしてそこから発言したり行動したりするものですから、ろくなことはありません。人生が行きづまったという言葉をよく耳にしますが、人生が行きづまったのでなく人生を考えている自分の心が行きづまったのです。だから問題の解決は、狭い自分の心を打ち破る以外にありません。

自分の狭い心が打ち砕かれるのは、自分の狭い心に本当に気がついた時であります。自分の心に頭が下がった時であります。そこから必ず広い世界が見えてまいります。狭い世界や暗い心で浄土を観るわけにはまいりません。自分の考えや自分の思い、そういうものが微塵にくだかれたところに真実の世界は自分を開いてくるのであります。

常識的にでもいえることでありますが、人間が大きいということは、見出した世界が大きいということでありましょう。大きな世界が見つかるほど、自分の立つべき場所が大きくなり、それによってその人には、強い自信が与えられる筈であります。こういう世界に通ずる道は、私たちにとって聞法以外にありません。聞法は浄土を見出した人の言葉を聞くことでありますが、それによって、私が砕かれて、私以上の世界が開かれてくることであります。

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