1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第52回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第52回 入出二門偈

(11)生活の方向がきまる 心の帰る場所が与えられて

五念門の最後を天親菩薩は廻向門(えこうもん)といわれます。廻向というのは分かりやすく申しますと、ふりむけること、何をというと心をふりむけることであります。そうするとこれは生きていくことの心の方向ということになりましょう。生きていくことに正しい方向がきまるということは、一寸考えると何でもないようですが、これが中々たやすいことではありません。何故かというと私たちの生活には方向というものが全く無いといってもよいくらいだからです。

迷いという字がありますが、これは米というのは四方八方ということだそうで、之はしんにゅうといって走ることだそうですから、四方八方に走りあるくことになります。つまり方角のさだまらぬこと、昨日までは向かいの人と仲よくしていたが都合の悪いことが起こった、そうすると今日は隣へ行くというように、都合のよい方に走っていく、都合のよいこともその内都合が悪くなりますから、また都合のよい方へ方角をかえる。こんな具合で、あちらこちらと方角は変るのです。

人生は、若し方角がきまればもうそれで勝負はついたようなものです。ところがそうではありません。人間さまざまの営み、そこには種々の悩みや苦しみがつきまとっていますが、それがどういう意味を持ち、いろいろの出来事が何を意味するのか、それが分からぬところに、人生の全体が無意味になってしまって刹那の享楽や、意味ない遊びに憂き身をやつして、大切な人生が空しく過ぎていくのでありましょう。

誰しも自分の人生の方向について、考えない人は無いと思います。どこに向かってどう行けばよいのか、人間、何しにこの世に生まれて来たのか、一度は問うてみたのでしょうが、結局分からなかったのでしょう。分からないのは分からせないようにしているさまたげがあるので、それは外にあるのではなく、私たちの中にあるのです。いつでもさまたげは自分にあります。それを知らせてそれを破り、そこに一筋の道を開く、それが念仏であります。

浄土は西方にあるといわれますが、天親菩薩は浄土のことを、広大無辺際(こうだいむへんざい)と、浄土にはここまでというしきたりは無いと言われますから、浄土でない所は無い筈です。それを特に西方と方向を指してあるのは、浄土に方向は無くても、浄土が願われるところに、私たちに方向がきまるということではないでしょうか。浄土とは一切のものの帰すべきところ、私たちの目に見える最大のものは太陽でしょうが、それがおさまる場所として、西は一切のもののおさまるところとして示されたのであろうと思います。

念仏によって私たちに真の方向が与えられるということ、南無阿弥陀仏は仏から私に向かってはたらく仏の心でありますが(親鸞聖人はこれを如来廻向といわれました)、それによって私たちの心は仏に向かうのであります。ここに私たちの心の方向は決定し、都合のよしあしをこえて一筋の道が開かれて一歩一歩確実な歩みが始まるのであります。

▲ ページの上部へ