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  5. 第55回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第55回 入出二門偈

(14)泥沼に生きて汚れぬ信

次に曇鸞大師の教えとして大事なことを挙げていられますが、それは信心というものが私たち人間にとってどういう意味をもつかということであります。一体信心というものは誰が頂くものかということについて曇鸞大師は、煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)の凡夫人と示していられます。成就というのは完全に身についているということ、そしてそこから逃げれることが出来ないということであります。

煩悩を抱えているとどうしても苦しまずに居れません。こういう心が起こらなければどれだけか爽やかだろう、楽だろうと思うこともあります。いらぬ心をおこしてわが身を勝手に苦しめているということに気のつくこともあります。しかしどうにもなりません。そういう人間であってこそ、念仏で救われるのであると示していられるのであります。 

ここで淤泥華(おでいけ)ということが出ています。これは蓮華のことであります。お釈迦さまは観無量寿経の終わりに「若し念仏するものがあれば、それは人間の中でも分陀利華野(ふんだりけ、蓮華のこと、これを親鸞聖人は正信偈に引いていられます)であるといわれました。善導大師はこれを解釈して、妙好人、上上人、希有人、最勝人といわれています。このましい人、とびきり上等の人、まれな人、すぐれた人ということでしょうが、念仏者を蓮華といわれるのです。

今ここに宗祖が引かれる曇鸞のことばは「淤泥華とは経(維摩経)にいわく、高原の陸地には蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥(ひしつのおでい―きたないどろ)に蓮華を生ず」ということであります。蓮華は高原の陸地には生えません。高嶺の百合ということがありますが、これは空気のよい清らかな場所に咲く気高い花をあらわします。しかし念仏者はそういうものではないということでしょう。

きたないどろ、これは私たちの生きている場所をあらわします。煩悩を起こさずには一日も生きていけない場所に私たちは住んでいます。趣味で煩悩をおこしている人もいないでしょう。生きることの厳しさ、生活がかかってくると、どうしても煩悩がからんでくるのです。しかしそういうきたない場所から念仏者が生れるのであります。

蓮華は泥から生まれても泥にしむことはありません。場所はきたない煩悩のまっただ中であっても、念仏を頂いた信心だけは、世の濁りにしむことはないということでしょう。これは信心が仏の心だからであります。だから曇鸞大師はこの蓮華について「此れは凡夫、煩悩の正覚(さとり)華を生ずるに喩(たと)う」といわれました。そしてこれは正に如来の力、他力であるとおさえられるのであります。

煩悩をやめるということは、濁った世に住んでいる罪深い私たちにとって思い及ばぬことでありましょう。問題はそういう生き方をしながら私たちが、どこまで自分を失わずに生きていくかということであります。そしてその問題に本当に答えてあるのが念仏の道であります。

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