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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第56回 入出二門偈

(15)時代を超えた仏の力

今度は道綽禅師のお言葉が引かれています。この方が明らかにされた中心の問題は、何故私たちがお念仏にあわねば助からぬのか、ということであります。道綽禅師は仏教でいう末法(まっぽう)の時代にお出ましになりました。末法というのは、お釈迦さまがおかくれになってから五百年間を正法(しょうぼう)と言い、お釈迦さまがおられたころと同じような状態が、つまり修行してさとりを開く人がまだ沢山おられた時代を指しています。

その次の時代を像法(ぞうほう)といい、千年を算えます。像法の像というのは今のことばで言うとイメージ、お釈迦さまの姿がまだ人々の心の中に消えずに残っている時代ということであります。しかしこの時代になると、修行する人はまだありますが、さとりを開く人は無くなってしまいました。それでもまだ修行に志す人は次から次へと出て来て、そういう姿で仏法ははっきりと残っていました。しかし末法になりますと、もうそういう人すらめったにないという状態になってしまいました。

道綽の生まれられたのは丁度そういう時代が始まった時でありました。そしてそういう拙い時代をひしと我が身に感ぜられ、絶望観におちいっていられたのでありますが、たまたま玄中寺という、かって曇鸞大師がおいでになった寺へ参詣され、そこに大師のことについて書かれた碑文を御覧になり、大師のような学徳すぐれた方でも、念仏に帰依されたということに感激されて遂に念仏の教えに帰入されたのであります。

つたない時代に生まれ合わせたつたない身、それが助かる道は念仏以外には無いということ、教えが如何に立派に見え、いかめしいものであっても、時代の人間を扱うことが出来なければ、画にかいた餅に等しいでしょう。時代というものは厳しいもので、人間がどんなにもがいても時代の流れには勝てません。丁度急な流れの川で泳いでいるようなもので、必ず押し流されてしまいます。それほど人間というものは弱いものなのです。

立派な教えが禅師のお出でになった時代にもありました。にも拘らずその教えによってさとりを得た人は一人もありませんでした。何故だろうか、こういう疑問が禅師の心に強くおこって来たのですが、つらつら考えての最後の結論は、それらの教えは、結局人間の努力をわけもなく吹き飛ばしてしまうような時代の嵐、これにあえば一たまりもないような弱い人間、そういう人間にはどんなに立派な教えも間に合わぬということでありあました。お念仏によって助かるということは、人間からの努力でなく、仏の力によって仏を実現していくという道であります。そこには人間の姿や時代の状況は問題ではありません。時代に押し流されていても仏が私の上にはたらいて下さる、そこに間違いなく仏が実現されるのであります。聖道門(しょうどうもん)は人間の努力の道、浄土門は(じょうどもん)は仏が実現する道であります。

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