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  5. 第57回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第57回 入出二門偈

(16)そうならずにいない人間

曇鸞章に一言追補しますと、最後の言葉として他力ということが出ています。これは大師が始めて他力ということを教えて下さったので、大切なことばだからでありましょう。しかし他力ということばが、よく世の中で誤解され、また聖人の教えに御縁のある私たちですら、ともすれば他力を間違って頂くこともありますので、今回は他力ということについて申してみたいと思います。

他力ということは、もちろん自力に対して他力といわれることばです。だから自力が分からぬと他力もはっきりしまぜん。自力というと、自分の力と思いますがそうではなく、力でなく心なのです。たとえば夜眠れない時に、眠ろうと思います。しかしいくら思っても眠れるものではありません。かえって思えば思うほど目がさえてくるものです。思う心はそれを実現する力はありません。にも拘らず私たちは、心の思う通りに自分がなるという、心に対する深い執着があります。心を執する、自力は執心であります。

人間は自分が自分でどうにもならぬものを抱えています。特に宗教の問題は、自分の心を始末することであり、困った自分から抜け出すことでありますから、それこそ最大の難事業といえましょう。たとえばこういう心をおこしてはならぬと思います。しかしそう思っても、心はおこる時にはおこって参ります。おこさぬようにしようという努力は間に合いません。気にかけまいとすると余計に気にかかり、聞くまいとすると、なお一層聞こえて来ます。こういうことは親鸞聖人が比叡山で、しみじみ感じられたことではないでしょうか。

これに対して他力は因縁(いんねん)の力であります。自然(じねん)の力であります。自然(じねん)法爾(ほうに)という言葉を聖人が使われますが、法爾ということは、法としてそうなる、言いかえれば法則的にということで、法則というものは、それに合しさえすれば必ずそうなるものであります。大体、因縁ということは無条件ということで、条件がそろうと、起こすまいとしても必ず起こって来ます。だから因縁の威力ともいわれますが、必ずそうなることを中国のことばであらわしたのが自然ということであります。聖人は「弥陀仏は自然のやう(用、はたらき)を知らせん料なり」とも申されました。私たちを必ず往生させる因縁、そのはたらきのもとが阿弥陀仏であるといわれるのでしょう。従って私たちがどうあろうとそれは問題でなく、ただ阿弥陀仏にあえさえすればよいのです。そこに大事なことが間違いなく成り立って来る、それを曇鸞大師は他力といわれました。

大事なことというのは入出人門偈で、先ず私たちが迷い心を知らされ、それが破れて浄土を見つけること、見こみのない娑婆に見限りをつけて浄土に進むこと(入)、それと同時に、その浄土をよりどころとして、今度は逆に見込みのないこの人生に身を挺すること、喜んで苦労し、明るく自分を実現していくこと(出)であり、それが他力によって成立つと結ばれたのであります。

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