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  5. 第58回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第58回 入出二門偈

(17)人間界の濁りへの絶望

道綽(どうしゃく)禅師は時代というものを切実に感ぜられた人であります。今は末法(まっぽう)であり、五濁(ごじょく)だといわれます。五濁(ごじょく)というのは劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の五つであります。これは特に現代の社会の姿をそのまま言い当てているように感じられます。

劫濁というのは時代自身が濁っているということ、純粋なものが通用せず、都合のよいものや、楽しいことだけが目的となって世の中は動いています。見濁というのは、見は人間の考え、それが正しくなく、純粋でなくなること、そして自らの考えを頑なに主張し他に押しつけ、それがまた争いのもとになるという状態を言います。イズムやイデオロギーの氾濫と争いは、五濁の世の特徴とも申せましょう。

次は煩悩濁ですが、これは人間の煩悩がますます強くなり、それに対する反省もなく、かえって正当化して心を燃やしつづけ、人間としての純粋性を失って荒れはてていくことであります。都合のよいものは何でも取り入れ、都合の悪いものは大事なものでも捨てる、他人に負けないと無理をし、勝ったと思えばおごり高ぶり、人を見下げたりしています。

衆生濁というのは、人間自身がよごれること、世の中も公害でよごれていますが、そこに住んでいる人間もにごっているということであります。命濁は生き方が不純ということで、不正な方法で生きたり、いのちを粗末にしたりして荒れはてること、このために不慮の死をとげる人も多くなるということです。このように五濁は、今の時代が残ることなくあらわしていると言っていいでしょう。こういう時代の救いは理想主義の仏教ではもたらされないでしょう。だから禅師は、今こそ浄土の教え以外では救いはないと言われるのであります。何故かというと、この世界(穢土・エド)を軽く考えるようです。つまりどうかすればどうかなる、そういう風に軽く考えるのでしょう。しかしこの世界はどうにもならぬところ、それで五濁悪世といわれるのです。そして人間はこの濁りに押し流され、そこから抜け出す力を持ちません。

浄土の教えは、人間の心掛け次第では、ここで何とかなるという理想を掲げる教えではありません。ここはどうにもならぬところ、人間の努力などは、露ほども間に合わぬものと思い知らされて、人間にも人間世界にも本当に絶望したところ、そこに開けてくる仏の道であります。

「当今ハ末法、是レ五濁ナリ、唯浄土ノミ有テ通入スベシ」。どうにもならぬ時代と人間の濁り、理想的なものを持ち込むすきもない、全く絶望的な姿、しかしそこに却って輝く浄土教のたしかさ、道綽禅師はそれを自らの迷いと濁りの深さを通して仰がれ、親鸞聖人もそれに同感されて、末法濁世の救いは、浄土の教えより他にないと示されているのであります。

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