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  5. 第59回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第59回 入出二門偈

(18)雨あらしにまごう悪業

更に道綽大師は、一体仏は何故、私たちに念仏せしめようと誓われたのであろうか、ということについて、私たちが悪を起こし罪をつくる姿は、丁度、暴風駛雨(ぼうふうしう)のようなものであるといわれます。駛雨はものすごい雨、だから雨をともなった大嵐、暴風雨のことであります。これは人間の罪の深さとはげしさを譬えであらわしたものでありますが、お経の中でこれを求めますと、観無量寿経の最後に出てくる人間の姿に当たるでしょう。

観無量寿経には終わりの方に、人間の九通りに分けて示されています。一番上が上品上生(じょうぼんじょうしょう)といって上等の人間、心掛けもよく行いも正しい人のことであります。最低は下品下生(げぼんげしょう)といって、どうにもならぬ人間、善はやったことがなく、凡ゆる悪は重ねているというような人間であります。と言いますと、そんな人間は珍しい、と思われるでしょうけれども、実はそれは外面的に人間を考えるからで、若し深く自分の心をみきわめてみると、私のことであり、また同時に濁った時代に生きている一般民衆の、いつわらぬ、しかしみじめな姿でもありましょう。 

こういう人間の姿を一生造悪ともいわれています。生きている限りは悪をつくらずには居れないということ、好みや傾向で悪をつくっているのでなく、生きるためには悪をなさざるをえないという悲しい現実、理想主義は美しいけれども、夢として終わるような社会、そこに生きている者には念仏より他に救いのないことを見きわめたところに、念仏を誓われる仏の心があるということであります。

念仏の暴風駛雨の人間の機(き、仏を実現する場所)として実現するような真理(まこと)であります。心掛けの間に合わぬような人間、望んだ善は出来ず、求めぬ悪には何時の間にか落ち込んでいる人間、そういう人間を凡夫と言いますが、その凡夫をやめるのでなしに、その凡夫を場所として真理を実現しようとするはたらき、それが南無阿弥陀仏であります。

南無阿弥陀仏は決して人間に心掛け与えて、努力によって人をつくりかえるのではありません。凡夫を凡夫と、底の底まで知らせるのであります。自分を知る、これを自覚と言います。しかし自分を知る力は自分にはありません。仏によって知らされるのであります。だから知らされた、もうそこに仏があります。

暴風駛雨ということは、理想の夢が破れたことですが、かといって紙も仏もないというような悲観的な言葉ではありません。現実に身を張って生きているという野性的人間をあらわす言葉であります。悲観も自分を失いますが、夢を見るような理想主義も自分を見失わせてしまいます。しかし自分を見失うことは決して人間を完成する道ではなく、自分に帰らせることで人間の完成しようというのが南無阿弥陀仏であります。その時暴風駛雨より他にない人間に、「至徳の風静かに、衆禍の波転ず」という功徳が実現するのであります。

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