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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第60回 入出二門偈

(19)無碍とは二のままが一

次いで道綽禅師が明らかにされたことは、たとえ一生悪を造って生きようとも、その中で信心を頂くならば、それが浄土へ生まれる道であるということであります。前には私たちの生活状況が暴風駛雨(ぼうふうしう)といって大嵐のようなものだと教えてありました。今は一人一人が一生悪を造ってのがれられないと示されています。これは凡夫のかけねのない姿であり、一皮むいた正体でもあります。

しかし前に言いました通り、人間は何も好きこのんで悪をやっているのではありません。悪をなさずには居れないきびしい現実があるのです。社会状況からいうと暴風駛雨、一人一人の個人をおさえると一生造悪、どうにもならぬ人間ということであります。美しい夢が間に合わぬ、そういう厳しい現実に生きている人間が、救われるために与えられてのが念仏であります。

ところが此処に一つの問題があります。折角念仏を頂きながら、中々目ざめられず、一向に満足がえられないのはどういうことであろうかという問題です。これを最初に問題にされた方は曇鸞大師でありました。これは本当に念仏したことのない人、ただわけもなく口でとなえているだけ人には問題になりません。念仏して始めて出会う重大問題なのであります。

助ける念仏にあいながら助からぬのは一体どうしたことか、ということになると普通は助ける念仏の方に何か問題があるのでないかと受け取られるようであります。しかし念仏して助からぬのは、念仏に問題があるのでなく、信心(念仏を頂く心)に問題がある、これを始めて明らかにされた方が曇鸞大師、つづいて今お話しております道綽禅師であります。このお二人を通して明らかになりましたことは、念仏を頂いた心(信心)が、念仏の心(念仏を私たちに下さった仏の心、本願の心)にかなわぬ、合わぬということでありました。

仏は私たちが本当の自分の姿に目ざめることを望んでいられるのでしょう。南無阿弥陀仏というのは南無せよという如来の命令だと親鸞聖人は受け取られました。自分の本当の姿に廻心(えしん)とも懺悔(さんげ)とも言いますが、道綽禅師のいわれた一生造悪というのは、廻心懺悔の言葉であります。

人間の夢を持っている間は本願には遇えません。人間が凡夫にかえることによって本願に遇うのです。助からぬと分かれば助けられるというのでなく、助からぬ身と知らされることが救われたことなのです。

本願があるから、一生造悪が差し支えないのです。一生造悪の身にとって、一生造悪と素直に頭が下がった純粋な心、たった一つのこの純粋な信心だけが浄土を開くのであります。南無のない自分は妄想、この立場に立っていますと仏と自分とを一つにしようとします。二つを、一つにしようとする立場がかえって一つにさせないのであります。南無と頭が下がれば二つのままが一つであります。二つのままが一つであるということが無碍というのであります。

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