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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第61回 入出二門偈

(20)悪人凡夫の現実に立って

道綽禅師の最後のことろで聖人は、禅師が三信ということを明らかに教えて下さったと示していられます。これは禅師のつくられた安楽集(あんらくしゅう)に「若しよく相続すれば、則ちこれ一心なり、ただよく一心なればこれ淳心なり、これの三心を具して、若し生まれずはそのことわり有ることなし」ということばがあるのですが、それを三信として取り上げられたのであります。正信偈では「三不三信のおしえがねんごろである」といわれています。

これはもとは曇鸞大師が三不信ということをいわれました。問題は南無阿弥陀仏を頂いても助からぬということ、それについて先ず信心が淳(あつ)くない、だから有ったり無かったりするのだといわれます。次は信心が一つでない、だから決まらぬということ。第三に信心が相続しない、だから他の心がまじる、それで助からぬのだといわれます。そしてこれは如来のお心に合わぬので、この反対の心こそ如来のお心にかなう心であるといわれました。

曇鸞大師はただ反対の心とだけ示されましたが、その心を三心としてはっきりのべられてたのが禅師であり、それは相続心、一心、淳心ということであります。一寸見るとただ反対にあらわされただけで、別にどうということもないように見えますが、この三心を具えれば往生は間違いないとつけ加えてあることが大事なのであります。これは曇鸞大師の言葉を観無量寿経を通して受け取られたというところに意味の深さがあります。

観無量寿経というお経は、業の深い人間のありのままの姿の上に、南無阿弥陀仏のまことがあらわれている貴重なお経であります。禅師がおっしゃった一生造悪ということも、人間のいつわりない現実の姿ですが、それは結局、煩悩に引きずり回されている悪人ということで、これが生々しく出ているのが観無量寿経でありますから、そして本願もまた悪人成仏のため(歎異抄第三章)ですから、そこにはどうしても観無量寿経を通さなければ、無量寿経で説かれた本願が具体的にならぬという問題を感じられたのでありましょう。

観無量寿経というお経は、無量寿経に説かれた弥陀の本願がまことであることを、現実の人間を通して証明された、たった一つの貴い記録でもあります。その中に三心ということが説かれたおり、「この三心を具えたものは必ず浄土に生まれることが出来ると示されています。ここで説かれている三心は、禅師が曇鸞大師のお言葉を通してあらわされた三心とは一寸違いますが、三心を具えれば浄土へ必ず生まれることが出来るという言葉の重要なことを感じられたに違いありません。そこから三心が出て来たのでしょう。

ねんごろとは私たちの立場に立って本願を頂いて下さったということ、信心は天親菩薩のお言葉にかえせば一心ということですが、一つの心というのは淳朴な心、だから淳心といわれるのです。いつでも一心、それが一生つらぬくのが相続心、これは信心のすがたをのべられたものですから、御開山は三信と言いかえられたのであります

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