1. ホーム >
  2. 教えにふれる >
  3. 読むページ >
  4. やさしい聖典道しるべ >
  5. 第62回 入出二門偈

やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第62回 入出二門偈

(21)廻心懺悔こそ仏の門

竜樹、天親の二菩薩、曇鸞、道綽の二高僧のおことばの次に、最後に善導大師のお言葉を引いていられます。最初に「念仏成仏是レ真宗ナリ」、これは法照禅師という方の言葉ですが、この方は善導大師の流れを汲んでいられるので、善導大師のお言葉として扱われたのでありましょう。だから御和讃にも、「世々に善導いでたまひ、法照、少康としめしつつ」といわれるのであります。

真宗は念仏によって私たちが仏になることの出来る道だというのであります。私たちに対する仏の心を本願と呼びますが、仏は一体、私たちに何を願っていられるのでしょうか。勿論、いうまでもなく、すべてのものを仏にしたいということに違いありませんが、その心を本当に実現する方法がなければ、ただやるせない本願ということだけに終わってしまうでしょう。しかし阿弥陀仏の本願には、その本願を実現できる具体的方法がちゃんと見出されるので、それが南無阿弥陀仏であります。

南無阿弥陀仏は仏の呼びかけの声でありますが、その意味は南無せよという仏の心があらわされているのであります。これは南無の門をくぐれば、すべてが仏になれる道が開けるということで、それを見きわめられたのが五劫思惟(ごこうしゆい)ということでありましょう。南無というのは廻心懺悔、自分の本当の姿、それに対する自覚であります。しかしそれが人間心からおこる単なる反省というようなものでなく、如来のまことが人間の上に、まことが無かったという懺悔となってあらわれるのですから、他力の信心といわれるのであります。

まことの無い者には、まことが無いというまことすらありません。かえって自分にもまことがある、時と場合によってはまことにもなれるつもりでいるものです。まことの無い者が、まことがなかったというのは、まことのあらわれでありましょう。してみれば南無こそ、私たちにとって、たった一つのまことであります。

南無阿弥陀仏以外の道は、仏になろうとしてなれませんでした。親鸞聖人はこのことを比叡の山で深刻に体験されたのでしょう。しかしこの道ではなれぬということが、すぐに分からなかったために、二十年の月日を費やされたに違いありません。それはなれるように見えていたからでしょう。聖道門(しょうどうもん、念仏以外の道)はそういう道なのです。そこには自分の現実の姿を忘れて、ただ理想のみを追わせるものがあります。

南無がなければすべては観念であり夢であります。念仏の道は、なろうとしてなる道でなく、なれないと知らせて仏を実現させる道であります。親孝行を心掛けて中々親孝行が出来ません。しているつもりでいると、時には親が自分の心を理解しないなどと言い出すものです。そうでなく親不孝の自分だ、本当に申し訳ないと思い知ること、そこにおのずから歩みだすことが出来る、他力の道はそういうものであります。

▲ ページの上部へ