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やさしい聖典道しるべ 仲野良俊

第63回 入出二門偈

(22)あらゆる手掛かりで念仏

次いで善導大師のお言葉の中から大切なもの、「釈迦諸仏は是れ真実、慈悲の父母なり、種々の善巧(ぜんぎょう)方便を以って、我らが無上の真実信を発起せしめたまう」というお言葉が出ています。これは善導大師の著書の中に、般舟讃(はんじゅさん)というのがあって、その中で最初に出ているお言葉が引かれているのであります。仏教に実践もいろいろあって、その中に般舟三昧(さんまい)というのがありますが、これは眼のあたり仏さまを拝むことのできる行だといわれています。これは念仏より他にないということになるのでしょう。

善導ご自身の言葉は釈迦如来となっていますが、それを親鸞聖人は、釈迦諸仏と諸仏をふくめてあらわされました。お釈迦さまも諸仏の中の一仏であるということはその通りですが、そういう意味だけでもないでしょう。聖人は、お釈迦さまは諸仏の中の一仏であることは勿論だけれども、それだけでなく、諸仏を代表された仏であると御覧になっているようです。このことは阿弥陀経にも出ていて、諸仏方がお釈迦さまの説かれたねんぶつのみのりを、口にそろえて称め讃えていられることからも分かります。だからお釈迦さまの心は、そのまま諸仏の心でもあるわけです。

このお釈迦さまを代表とする諸仏のお心は、何とかして迷っている私たちを目覚めさせたい。こういうお心でありますが、そのためにはいろいろの手をつくして私たちを念仏に導いて下さるのであります。そのためにはやはり手掛かりがなければなりません。何が仏さまがたの手掛かりかというと、私たちの苦しみや悩みでありましょう。病に苦しんでいるものを導いて念仏させようという仏もあり、家庭のいざこざを手掛かりにして念仏に導かれる仏もあり、何も問題のない者には、そんな呑気なことでどうすると叱って導かれる仏もあるのでしょう。善巧方便とはそういうことであります。諸仏の名前がいろいろあるのは、はたらきが皆違っていられるということでしょう。お釈迦さまは、どんなに罪の深い者でも、念仏せよ、必ず救われると説いて、念仏以外にどんな人間も助かる道はないことを強く示していられるのであります。

念仏が頂かれた心を信心と言い、善導ご自身は無上の信心といわれたのですが、それを親鸞聖人は真実信といって真実の字をつけ加えていられます。お念仏は如来のまこと、だから「念仏のみぞまことにておわします」いわれたのですが、そのまことを頂いた心だけがまことであるということ、人間にまことなどある筈がない、如来の心だけがまこと、その如来のまことが人間の上に実現したのが信心であるというので真実信といわれたのであります。如来にはここまでという際限はありません。だから無上といわれます。従って信心もここまでという際限はありません。ますます磨かれ、ますます純粋になり、どんなものでも包むほど広がっていくものなので、無上の信心といわれるのでありましょう。

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